芭蕉こんにゃく

こんにゃくのさしみも少し梅の花

俳聖・松尾芭蕉がこんにゃくを好物としたことは、至るところで指摘されている。芭蕉は寛永21(1644)年に生まれ、元禄7(1694)年に亡くなったというから、活躍年代としては江戸時代前期。常陸国(現茨城県)の寒村の農民だった中島藤右衛門が粉こんにゃくを発明したのは安永5(1776)年で、江戸時代後期に当たる。

精粉化することで流通が容易となり、こんにゃくが庶民化するよりも先に、すなわち粉こんにゃく発明以前の「珍味」の時代から、芭蕉は刺し身こんにゃくに慣れ親しんでいたようだ。こんにゃくを薄く刺し身形に切り、湯がいて酢みそで食べるというスタイルは、伊賀料理のものだとか。

上掲の句は、『芭蕉翁発句集』の注に「此句は無人(なきひと)のことなど云うついでと云えり」とあり、故人の仏前にこんにゃくが供えられたことが分かる。この句の前書きには「去来へ遣(つかわ)す」とあり、芭蕉とその門人・去来の共通の知人(去来の娘あるいは妹である千子といわれる)の死を悼んで、元禄6年、春の命日に詠んだものらしい。芭蕉自身は伊賀国上野赤坂町(現三重県伊賀市上野赤坂町)の生まれ。農業をなりわいとしていたが、正式に「松尾」姓を有する家柄だった。

俳諧師として諸国を旅して回ること、さらに伊賀は上野の出身であることから、「芭蕉=忍者」説も人気が高い。しかしながら、また別に「芭蕉=雲水」説なるものもある。芭蕉が仕えた主君であると同時に文学仲間でもあった藤堂良忠が早世した寛文6(1666)年から、芭蕉が江戸へ姿を現す5年ばかりの間、その動静は不明。その間、雲水として京都五山中のどこかの禅林に潜り込んでいたのではないかという説である。

禅宗寺院の精進料理として重宝されたこんにゃくに親しむ機会も多かっただろう。出生地の伊賀にしても、もとはと言えば、鎌倉時代末期までその土地の9割が東大寺などの荘園であり、仏法や精進料理にはとかく縁が深い土地柄だった。この辺りでは、今でも「芭蕉」の名を冠したこんにゃく製品が作られているようだ。

参考文献:辻啓介/辻悦子/根岸栄『健康食こんにゃく』(農山漁村文化協会)
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