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鉄橋化の時代

近代都市としての大阪が形成されるに際して、
交通網の整備という観点から、(鉄道以外で)
“橋”の果たした役割を再確認してみましょう。
       ☆
 一方、主な河川の橋梁も木製から鉄製のものへと順次掛け替えられていく。その嚆矢は、江戸期に紀州街道、亀岡街道など主要な往還道の起点であり、高札場も設けられていた公儀橋たる高麗橋であり(東横堀川)、一八七〇年にイギリスから輸入された錬鉄製の橋桁が用いられた(全国で三番目)。その後、一八七二年に鋳鉄製アーチを用いた新町橋、一八七三年に鉄製ボーストリングトラス構造の心斎橋、一八七五年に鉄製桁橋を採用した雑喉場橋難波橋、一八七七年に長堀橋の順に鉄橋化が進み、一八八二年ごろまでには十数橋が鉄橋となった。なかでも一八七三年製の安治川橋は大型船舶の航行のために、船の通行にあわせて中央部分が回転して航路を開ける可動橋として活躍した。
 近代初年に鉄橋化を促進したのは、賃銭橋(通行料を徴収する)を認可する布告が太政官から出されたからでもあるが、大阪ではとくに一八八五年の大洪水でほとんどの橋梁が流出してしまうという未曾有の災害に直面し、鉄橋の需要が高まったことが理由である。また、橋梁の構造的強化は、そのころ市街地に登場した人力車との通行との関連があった。比較的大きな動輪をもった人力車が、車夫をふくめ複数人を乗せて一挙に駆け抜けることは木造橋の耐久性の面からしてやはり問題であり、鉄橋化によって大勢の通行や風水害の際にも耐える丈夫な構造にすることは喫緊の課題であった。そうした対策は、やがてむかえる市電の通行と交通機関の発達にも呼応していくことになる。街案内をになう地図に鉄橋が記号を駆使して明記されたことは、文明化の象徴である観光対象であるのと同時に、人力車などの公共型交通の通行可能などを示す意味もあったといえよう。


参考文献:吉村智博『続かくれスポット大阪』(解放出版社)

ところで、大坂に在った12の“公儀橋”を復習すると、
 天満橋、天神橋、難波橋(大川)、
 高麗橋、本町橋、農人橋(東横堀川)、
 日本橋(道頓堀川)、長堀橋(長堀川)、
 京橋(寝屋川)、鴫野橋(平野川)、
 野田橋、備前島橋(鯰江川)――。
正直、「浪華三大橋」であるとか、「日本橋」などは
身近過ぎるあまり、じっくり、観察することを怠りがち。
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テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

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