明治ビタミン戦争

乃木将軍の自刃は明治天皇の崩御を受けてのもの。表向きの理由は西南戦争(1877年)において連隊旗を奪われたことを償う旨とされるが、日露戦争(1904〜1905年)でも多くの兵(自身の長男・二男を含む)を失い、自責の念にさいなまれていた。確かに、乃木将軍率いる第3軍が旅順要塞攻略のために仕掛けた3回の総攻撃を通して、甚大な被害を被ったのは否定し得ない。加えて、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』により、乃木将軍「無能説」が大衆に根強く植え付けられることになる。
無能説の当否はともかく、様々な要因が複合・重層的に絡まり合って、戦争の勝敗は決する。例えば兵站。兵站といい、戦場といえども生活の場であるから、何より食料が問題だ。ところが往時の軍隊では、三食すべてに白米を充て、「江戸わずらい」「軍艦病」とも呼ばれた脚気が蔓延してしまう。
当時、脚気には栄養バランス説と細菌説があり、英国医学から学んだ海軍は白米食による栄養バランスの崩れではないかと忖度し、兵食改良に踏み切った。他方、ドイツ医学の強い影響下にあった陸軍軍医部は細菌説を採用(その急先鋒が森鴎外)。対症療法的な兵食改良論は「民間療法」と痛罵された。結果として日露戦争時の陸軍兵は戦死者6万人、傷病者38万人のうち2万1,400人が死亡、その大半が脚気患者だった。
鈴木梅太郎が明治43(1910)年にオリザニン、翌年にポーランド人学者・フンクがビタミン抽出に成功するのは、後の話だ。
対するロシア軍も悲惨だった。ロシア軍のステッセルが旅順開城した時、兵力3万6,000人、うち健康者は1万2,800人に過ぎない。要塞内に食料はまだ残されていたにもかかわらず、籠城中のロシア軍を苦しめたのは日本軍の砲弾以上に、ビタミン不足による壊血病だったという。
戦場となった中国東北部では元々大豆に親しみ、厳寒に襲われる冬季にもなれば、ビタミン補給源として大豆もやしを作ってきた。大豆種子内のでんぷんや脂肪、たんぱく質などは、発芽の際に加水分解されて、様々な栄養素に合成される。特にビタミンC、アスパラギン、アスパラギン酸、γ-アミノ酪酸(GABA)は一気に増加する。しかし大豆になじみのなかったロシア兵に、もやしの活用法まではわからない。ロシア軍が貯蔵されていた大豆からもやしを作ることを知っていたらば、ビタミンCを補給でき、その窮状はかなり改善されていただろうに。
明治の世の半年以上に及ぶ旅順要塞をめぐる攻防戦は、日露おのおの、脚気と壊血病を抱えてのハンデ戦でもあった。
参考文献:関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』(文春文庫)
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