大豆飴
「だいずあめ」と読んではいけない。「大豆飴」は「まめあめ」と読むのである。れっきとした北陸、石川県七尾市の名物である。大豆飴の発祥には諸説あるようだが、最も古い説を採ると、鎌倉時代にまでさかのぼるらしい。
昭和3年(1928)に編まれた『石川県鹿島郡史』に「地頭に任命された長谷川信連が“能登の味”として源頼朝に献上した」との口伝が記されている。時代が下り、室町時代の頃の七尾市は能登畠山氏によって統治されていた。能登畠山氏といえば、畠山義統(3代)や義総(7代)が連歌集を編纂したように、都の文化を多く取り入れ、「小京都」と呼ばれる城下町を形成。華やかな商人文化や、石臼に代表される卓越した技術に裏打ちされて、高級菓子「大豆飴」が花開いた。
加賀藩主前田氏の祖、前田利家(1537〜1599)もまた太閤・豊臣秀吉に大豆飴を献上したという。さらに(現・七尾市の)府中町惣代肝煎が、加賀藩第2代藩主・前田利常(1594〜1658)へ献上した物のひとつとして「まめあめ」の文字が見られ、藩主献上品として伝えられてきた「大豆飴」の歴史が垣間見える。現代に伝えられる大豆飴の基本的な製法を見る限り、水飴と大豆の粉(きな粉)を練り合わせて作っている。形状は棒状や一口大サイズなど、製造所によって差異がある。きな粉や、振りかけて食べる抹茶粉などを作る際には、かつて石臼が活躍したのであろうと容易に想像できる。
余談になるが、昔日、京阪神の豆腐業へ流入してきたという北陸の人たちも、石臼文化圏に属していた影響の下にあって、豆腐作りという工程に親しみ易かったのではなかろうか。
ところで石川・七尾市は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師、長谷川等伯(1539〜1610)の生地でもある……活躍年代が、前田利家とほぼ被る。等伯は「小京都」と呼ばれ栄えた七尾で、その画才を開花させ、中央画壇でも高評価を受けるようになった訳だが、独特の風味と香ばしさで、茶会の席などに重宝された大豆飴の発展と軌を一にするようではないか。
七尾市では毎年、この時期(1月〜3月上旬)になると、「長谷川とうふ伯グルメ博覧会」が開催されている。「とうふ伯」は「等伯」の洒落だが、元々七尾市(含めて北陸)が豆腐と縁深くなければ、単なる語呂合わせに終わる。大豆〜豆腐とのつながりが濃い土地柄だったからこそのイベントなのだ。同博覧会では期間中、七尾市内の飲食店で、同市で作られた豆腐を元にした数々のメニューが提供される。
昭和3年(1928)に編まれた『石川県鹿島郡史』に「地頭に任命された長谷川信連が“能登の味”として源頼朝に献上した」との口伝が記されている。時代が下り、室町時代の頃の七尾市は能登畠山氏によって統治されていた。能登畠山氏といえば、畠山義統(3代)や義総(7代)が連歌集を編纂したように、都の文化を多く取り入れ、「小京都」と呼ばれる城下町を形成。華やかな商人文化や、石臼に代表される卓越した技術に裏打ちされて、高級菓子「大豆飴」が花開いた。
加賀藩主前田氏の祖、前田利家(1537〜1599)もまた太閤・豊臣秀吉に大豆飴を献上したという。さらに(現・七尾市の)府中町惣代肝煎が、加賀藩第2代藩主・前田利常(1594〜1658)へ献上した物のひとつとして「まめあめ」の文字が見られ、藩主献上品として伝えられてきた「大豆飴」の歴史が垣間見える。現代に伝えられる大豆飴の基本的な製法を見る限り、水飴と大豆の粉(きな粉)を練り合わせて作っている。形状は棒状や一口大サイズなど、製造所によって差異がある。きな粉や、振りかけて食べる抹茶粉などを作る際には、かつて石臼が活躍したのであろうと容易に想像できる。
余談になるが、昔日、京阪神の豆腐業へ流入してきたという北陸の人たちも、石臼文化圏に属していた影響の下にあって、豆腐作りという工程に親しみ易かったのではなかろうか。
ところで石川・七尾市は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師、長谷川等伯(1539〜1610)の生地でもある……活躍年代が、前田利家とほぼ被る。等伯は「小京都」と呼ばれ栄えた七尾で、その画才を開花させ、中央画壇でも高評価を受けるようになった訳だが、独特の風味と香ばしさで、茶会の席などに重宝された大豆飴の発展と軌を一にするようではないか。
七尾市では毎年、この時期(1月〜3月上旬)になると、「長谷川とうふ伯グルメ博覧会」が開催されている。「とうふ伯」は「等伯」の洒落だが、元々七尾市(含めて北陸)が豆腐と縁深くなければ、単なる語呂合わせに終わる。大豆〜豆腐とのつながりが濃い土地柄だったからこそのイベントなのだ。同博覧会では期間中、七尾市内の飲食店で、同市で作られた豆腐を元にした数々のメニューが提供される。
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