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仲平豆

鴎外石見(島根県)津和野生まれの森鴎外(1862〜1922年)は明治文壇の重鎮。小説家、戯曲家、翻訳家、評論家のみならず陸軍軍医としてエリート・コースを歩んだ。ドイツ留学から帰国後、ドイツ体験に基づく『舞姫』を執筆。小倉に赴任した頃は文壇から距離を置くが、40歳に帰京するとやがて陸軍軍医総監などの地位に上り詰め、文学活動を再開。明治42年(1909)に「スバル」を創刊し、『青年』、『雁』などを発表した。そうして大正元年(1912)、乃木希典の殉死を受けて『興津弥五右衛門の遺書』を執筆し、歴史小説〜史伝小説の執筆へと向かう。

今回取り上げる『安井夫人』は、若山甲蔵「安井息軒先生」に依拠した歴史小説。安井息軒仲平(1799〜1876年)は江戸時代の儒学者。現・宮崎市出身だが、父にならって江戸へ出て研鑚を積み、江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いたといわれる。その地道に刻苦精励する生涯に、鴎外が自身との共通点を見出し、あるいは彼を取り巻く家族模様に自らの理想を投じたとも読める。仲平は26歳で江戸へ出る前に、21歳の春から大阪・土佐堀で修業している。

大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷に著いて、長屋の一間を借りて自炊をしてゐた。倹約のために大豆を塩と醤油とで煮て置いて、それを飯の菜にしたのを、蔵屋敷では「仲平豆」と名づけた。

そのように質実剛健を地で行った(かつ人としての情愛の細やかさも忘れぬ)仲平は、将来有望の若者と周囲からの期待も高かったのだが、ひとつだけ残念なことに、男ぶりが宜しくなかったらしい。あばたがあって片目で、背が低く、「仲平さんは不男だ」と陰言を言われる始末。が、仲平の父・滄州翁は知恵や才気にこそ人間の美点があると考え、そんな仲平の「人物を識った女」こそ嫁に欲しいと思っていた。そこへ自分から申し出て嫁いだのが、若くも内気で「岡の小町」と呼ばれた佐代、タイトルにも取られている「安井夫人」である。

鴎外は作中、「お佐代さんはどう云ふ女であつたか」「何を望んだか」などの問いを繰り返しつつも、世俗的な対価を得たかどうかで彼女の生涯を評価することなく、「遠い、遠い所」へまなざしを向けた佐代の姿を淡々と描出している。
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たまに「考える人」、歴史探偵。
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