正真正銘の親子丼
昭和12年(1937)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が拡大していく時代、吉本興業と朝日新聞社が「わらわし隊」を編成して中国各地に送り出した。「わらわし隊」とは派遣演芸慰問隊の名前で、当時の空の英雄「荒鷲隊」をもじったもの。慰問演芸班の漫才のネタにも関わり、戦時下の慰問袋に収められた新作漫才集の台本を書いていたのが秋田實(1905〜1977)である。
この「読み物としての漫才」から、玉松一郎、ミス ・ ワカナの「今年は辰年」を引用しよう。物資が窮乏する中、一郎がワカナに親子丼をご馳走すると言う。材料にお金はかからず、非常に経済的と聞かされ――。
ワカナ「早速、家でもマネをさして頂きますから、料理法を教へて頂けませんか」
一郎「よろしい。まず五人分の材料に、大豆が一合と、焼豆腐が三丁。これでえゝのです」
ワカナ「豆と豆腐ですか、親子丼に?」
以下、一郎のレシピ。
「最初、豆を洗つて頂きます。洗ふと云ふても石鹸で洗はんでもよろしい。きれいに洗へましたら、味の方はすこしからい目にたいて頂きます」
「次に焼豆腐を三丁ともつぶします。つぶすと言ふても、金槌で叩いてつぶすのではありません」
「すり鉢に入れてすりつぶした豆腐をば、甘い目に煮いてもらひます」
「煮けましたら、熱い御飯に豆腐を先きにかけて、その上から、豆を振りかけて頂きます。これが僕ン處の自家製親子丼や」

お約束どおり、ワカナは「かしわと、卵を入れてこそ、名前通り親子丼と言ふのやないか」と突っ込み、対する一郎は、豆腐は大豆から作るのだから「豆が親で、豆腐が子やないか、これ程、正眞正銘の親子丼があらへんやろ」と混ぜっ返す。
時に昭和15年(1940)5月からは、週1回の“節米デー”が始まり、“国策ランチ”なども登場している。同年9月には贅沢食品禁令も出されている。そういったご時世であったことを思えば、いや、そうでなくとも、大豆と豆腐を甘辛く炊いた親子丼は結構おいしく、かつヘルシーな気もするのだが。
参考文献:『ミス ・ ワカナ 玉松一郎 漫才選集』(輝文館大阪パック社)
この「読み物としての漫才」から、玉松一郎、ミス ・ ワカナの「今年は辰年」を引用しよう。物資が窮乏する中、一郎がワカナに親子丼をご馳走すると言う。材料にお金はかからず、非常に経済的と聞かされ――。
ワカナ「早速、家でもマネをさして頂きますから、料理法を教へて頂けませんか」
一郎「よろしい。まず五人分の材料に、大豆が一合と、焼豆腐が三丁。これでえゝのです」
ワカナ「豆と豆腐ですか、親子丼に?」
以下、一郎のレシピ。
「最初、豆を洗つて頂きます。洗ふと云ふても石鹸で洗はんでもよろしい。きれいに洗へましたら、味の方はすこしからい目にたいて頂きます」
「次に焼豆腐を三丁ともつぶします。つぶすと言ふても、金槌で叩いてつぶすのではありません」
「すり鉢に入れてすりつぶした豆腐をば、甘い目に煮いてもらひます」
「煮けましたら、熱い御飯に豆腐を先きにかけて、その上から、豆を振りかけて頂きます。これが僕ン處の自家製親子丼や」

お約束どおり、ワカナは「かしわと、卵を入れてこそ、名前通り親子丼と言ふのやないか」と突っ込み、対する一郎は、豆腐は大豆から作るのだから「豆が親で、豆腐が子やないか、これ程、正眞正銘の親子丼があらへんやろ」と混ぜっ返す。
時に昭和15年(1940)5月からは、週1回の“節米デー”が始まり、“国策ランチ”なども登場している。同年9月には贅沢食品禁令も出されている。そういったご時世であったことを思えば、いや、そうでなくとも、大豆と豆腐を甘辛く炊いた親子丼は結構おいしく、かつヘルシーな気もするのだが。
参考文献:『ミス ・ ワカナ 玉松一郎 漫才選集』(輝文館大阪パック社)
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