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第36回 文楽鑑賞教室

6月14日(金)、「第36回 文楽鑑賞教室」に出掛けました。
この形態の公演にも慣れました。14時開演のプログラムに
参加したところ、学生の一団が観客席を埋め、喧しかったです。
国立文楽劇場開場35周年記念」と銘打たれていましたが、
特に演目は例年と変わり映えしないようで、「五条橋」と
解説「文楽へようこそ」の後に休憩。「菅原伝授手習鑑
寺入りの段/寺子屋の段で締めとなっています。
五条橋」は、おそらく、ぼくが本物の文楽に触れた
最初の演目で、感慨深いですねえ。吉田玉翔が解説、
吉田玉勢は寺子屋の段の春藤玄蕃を遣っていました。
       ☆
最近、谷崎潤一郎の「いわゆる痴呆の芸術について」を
読み返したこともあり、文楽を好む者の踏み絵となる文章で
あることよ……と慨嘆しているのですけれども、「歌舞伎を
痴呆の芸術だといい出したのは正宗白鳥氏であったと思うが、
辰野
(隆)のいうのもつまりはそれで、痴呆という点ではむしろ
義太夫の方が本家であるから、恐らくその意味の悪口であろう

と言いながら、辰野に反駁するかと思いきや、愛憎半ばする如く、
義太夫(=文楽)の“悪”を剔抉する筆勢に度肝を抜かれます。
大谷崎は文楽の義理人情などは歯牙にもかけず、ただ、
その“畸形的な美の世界”においてのみ、評価しているようです。
「菅原伝授手習鑑」における非人間的な残忍なものについては、以下の如く。
(初期谷崎ならば、決して臆面も無く言えたはずがない、真っ当過ぎる正論)
詞章を素直に読めば、正に「忠義に凝って殺人鬼になった人間の言葉」でしかなく。
       ☆
寺子屋の源蔵は庄屋の所へ呼び付けられて菅秀才の首を打って出せと命ぜられ、悄然と我が家へ帰って来ると、手習をしている村の子供たちを見廻して、「いずれを見ても山家育ち、世話がいもなき役に立たず」と罵ったり、新参の小太郎を見付けて「忽ち面色やわらぎ、さてさて器量すぐれて気高い生れつき、公家高家の御子息というても恐らく恥かしからず、ハテそなたはよい子じゃなあ」と喜んだりするのであるが、これらの台詞(せりふ)は、忠義に凝って殺人鬼になった人間の言葉としか受け取れず、いかに主家のために眼が晦(くら)んでいるからとはいえ、見も知らぬ人の子を「お役に立て」ることに聊(いささ)かの良心の苛責も感じないというのは、ただ呆れるより外はない。

参考文献:『谷崎潤一郎随筆集』(岩波文庫)
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テーマ : 伝統芸能
ジャンル : 学問・文化・芸術

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たまに「考える人」、歴史探偵。
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