文楽若手会
6月23日(日)、「国立文楽劇場」に出掛け、「文楽若手会」を聴いてきました。
“文楽既成者研修発表会”と位置付けられ、次代を担う技芸員の育成が目的。
電話予約をしており、開演13時の30分前までに、劇場窓口でチケットを
引き取らなければなりません。若手の発表会のせいでしょうか、観客席も
通常公演より若返っているように見えました。演目は「義経千本桜」
椎の木の段/小金吾討死の段/すしやの段、20分休憩の後、
「妹背山婦女(おんな)庭訓」道行恋苧環(おだまき)――となります。
今回の失敗は、寝不足でぼんやりしていて、双眼鏡を持参し損じたこと。
眼鏡も無いので、人形遣いの細やかな動きを一つひとつ追っていくことは無理。
その分、太夫の詞章の展開や三味線に集中して、耳を澄ましましたけれどね。
主馬小金吾武里を吉田玉翔、いがみの権太を吉田玉勢が遣っていました。
「妹背山婦女庭訓」では、小道具の苧環がくるくる回転するのが面白くて……。
さて、文楽好きの“踏み絵”となる大谷崎の痴呆芸術観から引用してみましょう。
☆
父親に腹を抉(えぐ)られてから長い告白をして父親を感激させ、どんでん覆(がえ)しになるところは、鮨屋の権太も玉手御前と同工異曲であるが、この方はまた一段と馬鹿々々しい。権太は父親に向って、「梶原ほどの侍」が維盛(これもり)を「弥助というて青二才の男に仕立ててあることを、知らいで討手(うって)に来ましょうか」といっているが、そんなことをいうなら、その梶原に贋首(にせくび)を掴(つか)ませたり、替え玉の御台(みだい)若君を渡したりして、それでうまうま彼を欺き終(おお)せると思うのが可笑(おか)しい。ところがこの浄瑠璃にはどんでん覆しが沢山あって、結局梶原は弥助が維盛であったことも、縄付の母子が実は権太の女房と悴(せがれ)であったことも、以前は不孝者の無頼漢であった権太がいつの間にやら悪い性根を入れ替えて忠義者になっていたことも、何も彼も洞察していたのであり、そういうことを百も承知でわざと一杯喰わされていたのだということになっている。そればかりでなく、梶原は頼朝の内意を受け、維盛の一命を助けて出家させようという目的で来ているので、つまるところは頼朝も梶原も弥左衛門や権太と同じ心であったことが、終りの方へ来て明かになるのであるが、それでは弥左衛門や権太の忠節も全然不必要なものになってしまうので、まことに呆然たらざるを得ない。手負いの権太もこれには驚いて「及ばぬ智慧で梶原を、たばかったと思うたが、あっちが何も皆合点、思えばこれまで騙(かた)ったも、後は命を騙らるる種と知らざる浅ましさ」といっているのはいよいよ可笑しい。この戯曲に出る梶原平三(へいぞう)景時(かげとき)は恐ろしい天眼通を備えた男で、権太に褒美として与えた頼朝の陣羽織が維盛の手に渡ることも、維盛が晋の予譲の真似をしてそれを刀で刺そうとする途端に羽織の裏の歌の文句に気が付くことも、歌の謎が解けて縫い目を切り開き、中に入れてあった袈裟と数珠とを首尾よく受け取るようになることも、何も彼も予定通りに運ぶことを先の先までちゃんと見抜いていたらしいのであるが、そんなに偉い智慧者であったら、権太や弥左衛門にあんな大騒ぎをさせないでも、もっと簡単に維盛を助ける方法がありそうなものではないか。あれでは維盛を助けるよりも、権太や弥左衛門の忠節をテストするのが目的であったように見えるが、まさかそんな訳ではなかろう。とすると、「梶原ほどの侍」が権太にああいう芝居をさせて、わざと一杯喰わされたりしたのは何のためであったか分らないし、権太や弥左衛門は忠義な人間というよりも、殺さないでもよい悴を殺したり、死なないでもよい命を落したりした気の毒な愚人であったことになり、この芝居全体が無意義なから騒ぎであったことになる。
☆
敢えて、反問してみましょう。とどのつまり、世の中は、愚か者どもの空騒ぎ
だったにせよ……それでは、何故、いけないのか? Tell me, tell me, why...
参考文献:『谷崎潤一郎随筆集』(岩波文庫)
“文楽既成者研修発表会”と位置付けられ、次代を担う技芸員の育成が目的。
電話予約をしており、開演13時の30分前までに、劇場窓口でチケットを
引き取らなければなりません。若手の発表会のせいでしょうか、観客席も
通常公演より若返っているように見えました。演目は「義経千本桜」
椎の木の段/小金吾討死の段/すしやの段、20分休憩の後、
「妹背山婦女(おんな)庭訓」道行恋苧環(おだまき)――となります。
今回の失敗は、寝不足でぼんやりしていて、双眼鏡を持参し損じたこと。
眼鏡も無いので、人形遣いの細やかな動きを一つひとつ追っていくことは無理。
その分、太夫の詞章の展開や三味線に集中して、耳を澄ましましたけれどね。
主馬小金吾武里を吉田玉翔、いがみの権太を吉田玉勢が遣っていました。
「妹背山婦女庭訓」では、小道具の苧環がくるくる回転するのが面白くて……。
さて、文楽好きの“踏み絵”となる大谷崎の痴呆芸術観から引用してみましょう。
☆
父親に腹を抉(えぐ)られてから長い告白をして父親を感激させ、どんでん覆(がえ)しになるところは、鮨屋の権太も玉手御前と同工異曲であるが、この方はまた一段と馬鹿々々しい。権太は父親に向って、「梶原ほどの侍」が維盛(これもり)を「弥助というて青二才の男に仕立ててあることを、知らいで討手(うって)に来ましょうか」といっているが、そんなことをいうなら、その梶原に贋首(にせくび)を掴(つか)ませたり、替え玉の御台(みだい)若君を渡したりして、それでうまうま彼を欺き終(おお)せると思うのが可笑(おか)しい。ところがこの浄瑠璃にはどんでん覆しが沢山あって、結局梶原は弥助が維盛であったことも、縄付の母子が実は権太の女房と悴(せがれ)であったことも、以前は不孝者の無頼漢であった権太がいつの間にやら悪い性根を入れ替えて忠義者になっていたことも、何も彼も洞察していたのであり、そういうことを百も承知でわざと一杯喰わされていたのだということになっている。そればかりでなく、梶原は頼朝の内意を受け、維盛の一命を助けて出家させようという目的で来ているので、つまるところは頼朝も梶原も弥左衛門や権太と同じ心であったことが、終りの方へ来て明かになるのであるが、それでは弥左衛門や権太の忠節も全然不必要なものになってしまうので、まことに呆然たらざるを得ない。手負いの権太もこれには驚いて「及ばぬ智慧で梶原を、たばかったと思うたが、あっちが何も皆合点、思えばこれまで騙(かた)ったも、後は命を騙らるる種と知らざる浅ましさ」といっているのはいよいよ可笑しい。この戯曲に出る梶原平三(へいぞう)景時(かげとき)は恐ろしい天眼通を備えた男で、権太に褒美として与えた頼朝の陣羽織が維盛の手に渡ることも、維盛が晋の予譲の真似をしてそれを刀で刺そうとする途端に羽織の裏の歌の文句に気が付くことも、歌の謎が解けて縫い目を切り開き、中に入れてあった袈裟と数珠とを首尾よく受け取るようになることも、何も彼も予定通りに運ぶことを先の先までちゃんと見抜いていたらしいのであるが、そんなに偉い智慧者であったら、権太や弥左衛門にあんな大騒ぎをさせないでも、もっと簡単に維盛を助ける方法がありそうなものではないか。あれでは維盛を助けるよりも、権太や弥左衛門の忠節をテストするのが目的であったように見えるが、まさかそんな訳ではなかろう。とすると、「梶原ほどの侍」が権太にああいう芝居をさせて、わざと一杯喰わされたりしたのは何のためであったか分らないし、権太や弥左衛門は忠義な人間というよりも、殺さないでもよい悴を殺したり、死なないでもよい命を落したりした気の毒な愚人であったことになり、この芝居全体が無意義なから騒ぎであったことになる。
☆
敢えて、反問してみましょう。とどのつまり、世の中は、愚か者どもの空騒ぎ
だったにせよ……それでは、何故、いけないのか? Tell me, tell me, why...
参考文献:『谷崎潤一郎随筆集』(岩波文庫)
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