『道頓堀川』の幸橋

終演後、目的もなく、大阪メトロ・千日前線に
乗って、なんばから1駅隣の桜川まで足を
延ばしました。雨にそぼ濡れ、彷徨ううちに、
何やら橋が見えてきて、嗚呼、あの「幸橋」
だったか!と。橋の名前自体は、以前にも
何度か触れていましたねえ。宮本輝の
『道頓堀川』(1981)から引用しましょう。
☆
「幸橋まで行こか?」
と邦彦は言った。その橋の真ん中に立って、夜の道頓堀を見るといい、という武内の言葉を思い出したからだった。住吉橋を過ぎると、道の両脇に材木屋の看板が並び始めた。暗い道は、材木屋に包まれるように真っすぐ伸びていた。西道頓堀橋を過ぎ、次が幸橋だというあたりで、流行り(はや)の服装に身を固めた数人の若者が一列になって歩いてきた。邦彦とまち子は店舗の陰に寄って道をあけた。
(中略)
幸橋の真ん中まで行くと、邦彦とまち子は欄干に寄って、一直線につづいている夜の川の彼方の、道頓堀の光彩に見入った。川に光はなく、それは歓楽街に伸びて行く底深い一本の道に見えた。道は橋々をくぐって後方の、遠い高層ビルの方にまでつづいて行く。苔や青みどろに覆われた太い材木が浮かんでいたが、それも道に捨て置かれた黒い岩のようである。道の果てに四角いスクリーンがあって、そこにぽつんと七色の光が映し出されているのだった。なるほど、自分はあんなところで生きているのかと邦彦は思った。あんな眩(まば)ゆい、物淋しい光の坩堝(るつぼ)の中で生きているのか。
「いやあ、うちら、遠いとこまで来てしもたんやなァ」
まち子の言葉どおり、そこから見ると、道頓堀は小さくはかなく、遠い辺境の地であるかのように映るのである。
☆
作中の時代と隔たってしまった現在、住吉橋以西に材木屋は見当たらず。
ただ、桜川周辺は繁華街でないので、幸橋の真ん中に立って、道頓堀川の
東の方を眺めれば、(夜でなくとも)“歓楽街”との距離はしっかりと感じ取れます。
“遠い辺境の地”に流されていくのは、明らかにぼくの方なのですけれども、常に。
参考文献:宮本輝『川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川』(ちくま文庫)
参考記事:大阪市 - 幸橋
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