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西郷隆盛と豆腐汁

「維新の三傑」には、薩摩藩出身の大久保利通と西郷隆盛の2人が含まれる(もうひとりは長州藩の木戸孝允)が、西南戦争で自刃した西郷と異なり、大久保の地元人気は極めて低い。西郷の銅像は早い時期から建っていたが、大久保の銅像は没後100年の1974年になってようやく建ったほど。西郷は存命当時から異常人気だったため、没後は「西郷星」が出現したと騒がれたり、チンギス・カン=源義経に代表される「義経伝説」と全く同じ構造の西郷生存説が流布したこともある。

西郷隆盛(1828〜1877年)の思想は、『南洲翁遺訓』に記された「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」――いわゆる「敬天愛人」が有名だが、それらは河村北瞑の『西郷南州翁百話』中の個々のエピソードからも窺える。

西郷は、飲食物について文句を言い立てたことがなかった。ある日、弟・従道の住まいを訪ねたところ、従道はたまたま銭湯へ出掛けていて留守。しばらく待っても弟は帰って来ないので、下女に命じて夜食を用意させた。彼女は支度に手間取ってはならないと勘案し、簡単に拵えられる豆腐汁(おそらくは豆腐の味噌汁)を出してもてなした。
豆腐横丁(201108)

その場へ従道が帰宅した。彼も西郷と夜食を共にしようと、豆腐汁をすすり、ご飯を食べ始めたのだけれど……汁に塩気がなく、まるで湯を飲むような心地ではないか。従道は怒った。大声で下女を叱りつけ、調理に対する不注意を謝らせた。

激高する弟の様子を眺めていた西郷は、従容とした態度で、従道に語りかけた。「豆腐汁の塩加減など、問題にするようなことでもないだろう。ご飯のおかずにして食べることができれば、十分じゃないか。そんな些細なことで使用人を責めるなよ」と。従道は「ぼくは到底、兄の度量の大きさには及ばない」と呆れ、感嘆した。小事にこだわらず、常に大局を見よとのメッセージか。

だが「食」の問題は、実は小事とも言えない。弟は銭湯だけでなく他の店にも立ち寄り、満腹状態ではなかったのではないか。対するに空腹は最大の薬味、腹を空かせた西郷にとって微妙な味は二の次で、とにかく素早く供された豆腐汁がありがたかったとも言える。

人の問題から言えば、西郷という来客と豆腐汁を出す下女の間で成立した食事の場に、突然割り込んだ従道が料理の塩梅をとやかく言うのは、コンテクストの無視だという批評にもなろうか。

参考文献:河村北瞑『西郷南州翁百話』(求光閣書)
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たまに「考える人」、歴史探偵。
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