鹿の来歴
奈良公園の鹿について、少しだけ、調べてみました。
鹿は「春日大社」の神の使いとされています。
「春日大社」のホームページでは、以下のように由緒が述べられています。
☆
春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(たけみかづちのみこと)様を神山御蓋山(みかさやま)山頂浮雲峰(うきぐものみね)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手(ながて)によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県鹿取から経津主命(ふつぬしのかみ)様、また大阪府枚岡から天児屋根命(あめのこやねのみこと)様・比売神(ひめかみ)様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
☆
常陸国の「鹿島神宮」と下総国の「香取神宮」は約13kmしか離れておらず、
古代は湖の対岸に位置しており、“鹿島香取”とセットで呼ばれることも
多かったようです。地名に表れているように、鹿島香取は鹿の生息地として
知られていたのでしょう。その鹿島神宮から春日に武甕槌命が勧請された時、
鹿の背に乗ってやって来たといわれているようです……それでも、釈然としません。
何故、鹿島鹿取から大和の地まで、祭神を招くことになったのか?
また、『春日御社御本地幷御託宣記』、『古社記』などの史料において、
称徳天皇の勅命については触れられません。端的に言うと、「春日大社」は
国家による公的な創建でなく、藤原氏の氏神を祀る空間だったということですね。
藤原永手は、藤原北家の祖=藤原房前の次男であり、つまりは“藤原氏の祖”
である藤原不比等の孫に当たります。称徳天皇の母が光明皇后で、
光明皇后の父がやはり不比等ですから、天皇自身も不比等の孫ではあり、
公私混同というか、藤原氏が国家権力の中枢に食い入っていたことから、
実質的に“勅命”に近かったのかもしれませんが、史実の改変は駄目です。
しかし、藤原氏の氏神が何故、武甕槌命とされるのか? 手元に置いて
読み進めている島田裕巳の記述でも、むにゃむにゃ、歯切れが良くないこと。
☆
平安時代後期に成立した紀伝体の歴史書『大鏡』には、鹿島が不比等の父である藤原鎌足の出生の地だからだと書かれている。ただし、それよりも古く、760年(天平宝字4年)に成立した『藤原家伝』などの史料では、鎌足は大和国の生まれとされている。おそらく、鎌足は鹿島の生まれでないのだろう。
『古事記』では、春日大社の祭神である武甕槌命は建御雷之男神などと表記される。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が火神であるか軻遇突智(かぐつち)の首を切り落としたとき、その血から生まれた三神の一つである。出雲の国譲りの際に武甕槌命は、経津主命とともに大国主神にそれを迫る役割を果たしている。その点で、武甕槌命と経津主命は、大和朝廷による日本全土の征服に貢献した重要な神である。あるいはこうしたことが、春日大社で武甕槌命と経津主命が祀られる原因になったのかもしれない。
☆
ひとまず、藤原永手が鹿島香取から勧請した氏神と共に、鹿もやって来たところまで。
参考文献:島田裕巳『二十二社 朝廷が定めた格式ある神社22』(幻冬舎新書)
鹿は「春日大社」の神の使いとされています。
「春日大社」のホームページでは、以下のように由緒が述べられています。
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春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(たけみかづちのみこと)様を神山御蓋山(みかさやま)山頂浮雲峰(うきぐものみね)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手(ながて)によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県鹿取から経津主命(ふつぬしのかみ)様、また大阪府枚岡から天児屋根命(あめのこやねのみこと)様・比売神(ひめかみ)様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。
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常陸国の「鹿島神宮」と下総国の「香取神宮」は約13kmしか離れておらず、
古代は湖の対岸に位置しており、“鹿島香取”とセットで呼ばれることも
多かったようです。地名に表れているように、鹿島香取は鹿の生息地として
知られていたのでしょう。その鹿島神宮から春日に武甕槌命が勧請された時、
鹿の背に乗ってやって来たといわれているようです……それでも、釈然としません。
何故、鹿島鹿取から大和の地まで、祭神を招くことになったのか?
また、『春日御社御本地幷御託宣記』、『古社記』などの史料において、
称徳天皇の勅命については触れられません。端的に言うと、「春日大社」は
国家による公的な創建でなく、藤原氏の氏神を祀る空間だったということですね。
藤原永手は、藤原北家の祖=藤原房前の次男であり、つまりは“藤原氏の祖”
である藤原不比等の孫に当たります。称徳天皇の母が光明皇后で、
光明皇后の父がやはり不比等ですから、天皇自身も不比等の孫ではあり、
公私混同というか、藤原氏が国家権力の中枢に食い入っていたことから、
実質的に“勅命”に近かったのかもしれませんが、史実の改変は駄目です。
しかし、藤原氏の氏神が何故、武甕槌命とされるのか? 手元に置いて
読み進めている島田裕巳の記述でも、むにゃむにゃ、歯切れが良くないこと。
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平安時代後期に成立した紀伝体の歴史書『大鏡』には、鹿島が不比等の父である藤原鎌足の出生の地だからだと書かれている。ただし、それよりも古く、760年(天平宝字4年)に成立した『藤原家伝』などの史料では、鎌足は大和国の生まれとされている。おそらく、鎌足は鹿島の生まれでないのだろう。
『古事記』では、春日大社の祭神である武甕槌命は建御雷之男神などと表記される。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が火神であるか軻遇突智(かぐつち)の首を切り落としたとき、その血から生まれた三神の一つである。出雲の国譲りの際に武甕槌命は、経津主命とともに大国主神にそれを迫る役割を果たしている。その点で、武甕槌命と経津主命は、大和朝廷による日本全土の征服に貢献した重要な神である。あるいはこうしたことが、春日大社で武甕槌命と経津主命が祀られる原因になったのかもしれない。
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ひとまず、藤原永手が鹿島香取から勧請した氏神と共に、鹿もやって来たところまで。
参考文献:島田裕巳『二十二社 朝廷が定めた格式ある神社22』(幻冬舎新書)
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