長堀通を歩く
前々日(9月15日)の昼食時、相方と
「SAPPORO SOUP CURRY JACK」
を再訪しています。天気も良いので、
西長堀から地下鉄に乗るのをよして、
長堀通を東へ向かって歩いてみました。
白髪橋交差点の東側、長堀通の緑地
帯に建っていたのが、「大阪木材市売
市場発祥の地」と記された石柱です
(上画像)。適宜、句読点を入れて、
漢字に直した案内文は、下記のとおり。
☆
元和末年(1622)の頃、土佐藩の申請によって材木市が
立売堀川で始まり、やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町に構えると
西長堀川でも材木市が許可されることになった。土佐ばかりでなく、
日向、紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まり、次第に
川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり、
西長堀橋南詰から、富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は、
江戸時代から昭和に至るまで、一年中、材木市が開かれていた。
戦後、長堀川は水質の汚染が進み、舟運の利用も減少したため、
昭和36年(1961)から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が
埋め立てられ、また昭和42年(1967)から同46年(1971)にかけて
四ツ橋から木津川間の西長堀川も埋め立てられた。
今でも北堀江の東側には、材木商の看板があちこちに残っている。
☆
長堀川、(四ツ橋以西の)西長堀川が埋め立てられて
いき、四ツ橋などの橋が撤去され、長堀通が造られた
訳なのです。現在、緑地帯は「西横堀公園」と呼ばれて
いるようですが、遊歩道などもさほど整備されている
観は無かったですねえ。白髪橋の次の交差点の辺りで
「問屋橋(といやばし)」の親柱(左画像)を発見しました。
感激しています。一帯に、ポルシェなどの高級外国車
販売店などが幅を利かせる中、ほっとさせてくれるでは
ないですか! 「大阪問屋橋郵便局」という名称にも、
橋が残されています。「白髪橋」は交差点名だけとして、
「富田屋橋」、「西大橋」、「宇和島橋」、「西長堀橋」
は今回、親柱も、説明板も確認できておりません。
「宇和島橋」は、愛媛県宇和島市に移築されたという
情報も見かけており、調査の必要を感じているところ。
宿題がいっぱいなのです(だから、まだ生きている)。

「SAPPORO SOUP CURRY JACK」
を再訪しています。天気も良いので、
西長堀から地下鉄に乗るのをよして、
長堀通を東へ向かって歩いてみました。
白髪橋交差点の東側、長堀通の緑地
帯に建っていたのが、「大阪木材市売
市場発祥の地」と記された石柱です
(上画像)。適宜、句読点を入れて、
漢字に直した案内文は、下記のとおり。
☆
元和末年(1622)の頃、土佐藩の申請によって材木市が
立売堀川で始まり、やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町に構えると
西長堀川でも材木市が許可されることになった。土佐ばかりでなく、
日向、紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まり、次第に
川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり、
西長堀橋南詰から、富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は、
江戸時代から昭和に至るまで、一年中、材木市が開かれていた。
戦後、長堀川は水質の汚染が進み、舟運の利用も減少したため、
昭和36年(1961)から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が
埋め立てられ、また昭和42年(1967)から同46年(1971)にかけて
四ツ橋から木津川間の西長堀川も埋め立てられた。
今でも北堀江の東側には、材木商の看板があちこちに残っている。
☆

いき、四ツ橋などの橋が撤去され、長堀通が造られた
訳なのです。現在、緑地帯は「西横堀公園」と呼ばれて
いるようですが、遊歩道などもさほど整備されている
観は無かったですねえ。白髪橋の次の交差点の辺りで
「問屋橋(といやばし)」の親柱(左画像)を発見しました。
感激しています。一帯に、ポルシェなどの高級外国車
販売店などが幅を利かせる中、ほっとさせてくれるでは
ないですか! 「大阪問屋橋郵便局」という名称にも、
橋が残されています。「白髪橋」は交差点名だけとして、
「富田屋橋」、「西大橋」、「宇和島橋」、「西長堀橋」
は今回、親柱も、説明板も確認できておりません。
「宇和島橋」は、愛媛県宇和島市に移築されたという
情報も見かけており、調査の必要を感じているところ。
宿題がいっぱいなのです(だから、まだ生きている)。
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