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ウォートルス物語(1)

蒟蒻煉瓦の話から引っ張りますよ。
洋風建築の材料である煉瓦を焼くために
代用された、江戸時代からの屋根瓦用の
達磨窯には、技術的難点がありました。
1回に焼ける量が限られているのです。
街全体の煉瓦化――明治政府の井上馨
企図した“銀座煉瓦街計画”には、全く足りない。
ぼくの大好きな「泉布観」の設計者、
トーマス・ウォートルス(1842~1898)の登場です。
       ☆
 明治5年(1872)の大火で焼け出された銀座全域を、不燃化のため煉瓦造で再建することが決められたが、そのあまりに大量の煉瓦をどう製造すればいいのか。それまでは伝統の瓦窯の“達磨窯”を転用して焼いていたが、とても足りない。
 道路計画から建築設計はむろん材料調達、現場管理まで一切合切、井上馨から任されたトーマス・ウォートルスには勝算があった。
 この細面の一見するとひ弱な印象をしたアイルランド人は、イギリス人との触れ込みで幕末の長崎外国人居留地に上陸している。「死の商人トーマス・グラバーの下で、グラバーが仲介する洋式工場建設のエンジニアとして、幕末・明治初期の激流に身を投じ、うまく泳ぎ、他の外国人を押しのけて明治新政府一の御雇外国人建築家の地位に就いていた。
 高い地位を得たのは、新開地に必要な諸技術を、たとえば土木、建築はむろん、電気、ガス、蒸気機関、鉄道、セメント製造と、そこそここなす知識と経験を持っていたからだ。
 日本近代建築史上、幕末から明治初期にかけて、「ウォートルス時代」と呼ばれる一時期を画した御雇外国人建築家として知られるが、その正体は建築家ではなく鉱山技師だった。鉱山の開発は、人跡未踏の地に出かけ、測量に始まり道路、トロッコ、ダム、水道、工場、宿舎、電気、スチームエンジン、動力機械と、何でも一人でこなさなければならない。
 万能というか何でも屋というか、新開地向きの広く浅い技術者であった彼は、たまたま日本の激動期に出会い、高く評価され、新しい東京の表玄関を飾る銀座の一大計画を任されたのだった。
 何でも屋の鉱山技師は煉瓦を大量に生産する最新鋭の窯を知っていた。ドイツの窯業技術者フレデリック・ホフマンが1856年に開発した「ホフマン窯」である。
 ウォートルスはドイツに通じた技術者であり、鉱山開発にとって煉瓦は必須の建材だから、ホフマン窯を見知っていたはずだし、銀座のためにドイツから図面を取り寄せるのも容易。
 ホフマン窯の焼成室はドーナツ型をしており、詰め込み→焼成→取り出し、を円環状のトンネルの中で繰り返すと、エンドレスで煉瓦を生成することが可能になる。

 (中略) 
 ウォートルスが小菅の監獄に築いたホフマン窯の大成功により、日本の煉瓦製造は以後この方式で統一され、戦後にガス窯が導入されるまで続いた。

参考文献:藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』(新潮新書)
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テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 近代建築

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たまに「考える人」、歴史探偵。
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