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山田寺仏頭

現在は、跡しか残っていない飛鳥(明日香)の「山田寺」は
舒明13年(641)、蘇我倉山田石川麻呂の発願により、
造営が始まりました。倉山田石川麻呂は、蘇我入鹿の従兄弟に
当たります。乙巳の変(645)において、中大兄皇子と中臣鎌足の
側に付いた石川麻呂でしたが、大化5年(649)、謀反の嫌疑を掛けられ、
山田寺にて自害。山田寺の丈六仏が鋳造されたのは、天武7年
(678)になってからのことでした。この丈六仏が問題の薬師如来像です。
       ☆
 山田寺仏頭は、読んで字のごとく、現在は首の上しか残っていない。山田寺仏頭は、十二世紀の終わりに、興福寺東金堂の三代目の本尊として据えられるが、応永十八年(一四一一)の火災によって、首から下が焼け落ち、その後再興本尊の台座に納められたまま、忘れ去られていた秘仏であった。ふたたびこの世に姿を現したのは、昭和十二年(一九三七)に東金堂が解体修理されたときのことで、現在では、白鳳時代を代表する彫刻として、国宝に指定され、興福寺の宝物殿に展示されている。
       ☆
ぼくの偏愛する「銅造仏頭」の由来となります。平たく言えば、
蘇我氏が建てた山田寺の本尊の首が、藤原氏の氏寺である
興福寺」に飾られているという皮肉な構図が浮かび上がるのでした。

参考文献:関裕二『蘇我氏の正体』(新潮文庫)
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テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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たまに「考える人」、歴史探偵。
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