稲荷社文楽座跡

「難波神社」(大阪府大阪市中央区博労町
4丁目1−3)がございます。主祭神は仁徳
天皇、他に素盞嗚尊や摂社「博労稲荷神社」
の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。東門の外に
「稲荷社文楽座跡」という石碑が建っており、
境内の説明板を読むと――文化8年(1811)、
植村文楽軒が稲荷社(=難波神社)境内で
人形浄瑠璃の小屋を開き、“文楽発祥の地”
といわれているとのこと。一時移転するも、安政3年(1856)に再び稲荷社に復帰した
頃から「文楽軒の芝居」と呼ばれるようになったそうです。初代・植村文楽軒(1751
~1810)は淡路の出身でしたねえ……それはともかく、お気付きのとおり、説明板は
端折っていますが、「稲荷の芝居」を立ち上げたのは、2代目・文楽軒(1784~1819)
となります。3代目・植村文楽軒(1813~1887)は2代目の実子(史実的には「4代目」
が正しいかと思われますが、難波神社の説明板に従い、「3代目」と表記します)。
寺社内での芝居が禁止される(天保14年)などして苦労したようですが、「文楽座の
芝居(=稲荷の芝居)」を確立したのはこの人。明治5年(1872)、文楽座は新開地の
九条(松島新地)に移り、「官許人形浄瑠璃文楽座」の看板を掲げている隙を突いて、
明治17年(1884)、三味線の2代目・豊沢団平を擁する「彦六座」(稲荷座)が難波
神社の北門に開場。同年、対抗する文楽軒(4代目、正味5代目)が「御霊神社」の
境内に芝居小屋を掛け、「御霊文楽座」として大正15年(1926)まで興行を行って
いました。熾烈な興行戦争が引き起こされるほど、熱烈な文楽人気があった訳です。
しかし、落語家の名跡と同様、太夫等も何世だか何代目だか、ややこしい限りで、
難波神社の説明板もその煩雑さを厭い、一部記述を省いたものだろうと納得。
☆
忘れてはいけないのが、境内入り口付近いっぱいに枝を広げる楠の大樹(御神木)。
樹高11.0m、幹周り3.2m。戦争で火傷を負うも生き残り、大阪市内では最古の楠
らしいです。大阪市指定の“保存樹”第1号とされていますよ。ぼくが携帯電話で
画像撮影に勤しむ間にも、楠の大樹にそっと触れていく参拝客の姿がちらほらと。
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