唐辛子と納豆
児玉花外(1874〜1943年)は明治期の社会主義詩で知られた詩人だが、今や埋もれた存在か。発禁処分を受けた『社会主義詩集』は一時期、古書コレクターの間で稀覯本の筆頭に挙げられたものだが、作品の内容が評価されていた訳ではないようだ。
京都出身だった花外が明治末期に発刊した『東京印象記』では、平易な文章で東京に対する感懐が綴られている。花外は同志社予備校や札幌農学校(現・北海道大学)などを中退した後、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。早稲田も後に中退するのだが、その3年ばかりの若き日々に、東京の印象が刻み付けられたのかしら。かつて納豆売りは江戸の名物だったが、花外が同時に着目したのは唐辛子だった。
「七味唐辛(とうがらし)は、納豆と共に、東京ッ子の好物の一つだ」と断言する。「雪が降っても毎朝、東京では女房子供が、暁から『納豆納豆』と呼んで売て歩く。納豆は最も東京人士の、一般に喜ぶ食物だ」と認めた上で、七味唐辛子を持ち上げる。縁日で老女が露店で売る、木製の小さな樽形の容器をきめ細やかに観察。2勺(約18グラム)入りの1樽もあれば鬼でも泣かせると言い、だからこそ江戸っ子が嗜むのだと洞察する。両国に昔から名代の唐辛子屋があるとも述べている。
しかし、例えば東京浅草寺「やげん堀」が有名なように、京都清水寺界隈の七味唐辛子も世間に知られているのではなかろうか。納豆と唐辛子を併記する花外の無意識に、出身地・京都への追慕の情が隠れてなかったかと空想する。
京都も唐辛子が名物だと知らなかったのか、花外自身の判断は異なる。「納豆は、大豆の腐ったのと人は言ふが、此種の、奇な変つた味を好くのも、亦江戸的趣味が残つた所だらう」と決め付けると、「唐辛は、強い激しい刺戟を好む東京ッ子に、是非無くてならぬ香料である」と。要は、東京人は一風変わった刺激的な食物を求めるが故に、納豆や七味唐辛子を偏愛するのだという了解の仕方。だが“奇妙な味”は唐辛子と納豆に限るまい。なぜ、唐辛子と納豆なのか?
江戸時代から馴染み深い納豆のぼてふりだが、(寺田寅彦の随筆などから)明治期に町中を徘徊する七味唐辛子の売り子の存在も確かだ。花外の東京時代に唐辛子売りと遭遇していたかもしれず、そのぼてふり関連による連想から、唐辛子と納豆を東京人の嗜好品として列挙したのではないかとも夢想する。現実問題、七味唐辛子と納豆という組み合わせはなかなか悪くないもの。
参考文献:児玉花外『東京印象記』(金尾文淵堂)
京都出身だった花外が明治末期に発刊した『東京印象記』では、平易な文章で東京に対する感懐が綴られている。花外は同志社予備校や札幌農学校(現・北海道大学)などを中退した後、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。早稲田も後に中退するのだが、その3年ばかりの若き日々に、東京の印象が刻み付けられたのかしら。かつて納豆売りは江戸の名物だったが、花外が同時に着目したのは唐辛子だった。

「七味唐辛(とうがらし)は、納豆と共に、東京ッ子の好物の一つだ」と断言する。「雪が降っても毎朝、東京では女房子供が、暁から『納豆納豆』と呼んで売て歩く。納豆は最も東京人士の、一般に喜ぶ食物だ」と認めた上で、七味唐辛子を持ち上げる。縁日で老女が露店で売る、木製の小さな樽形の容器をきめ細やかに観察。2勺(約18グラム)入りの1樽もあれば鬼でも泣かせると言い、だからこそ江戸っ子が嗜むのだと洞察する。両国に昔から名代の唐辛子屋があるとも述べている。
しかし、例えば東京浅草寺「やげん堀」が有名なように、京都清水寺界隈の七味唐辛子も世間に知られているのではなかろうか。納豆と唐辛子を併記する花外の無意識に、出身地・京都への追慕の情が隠れてなかったかと空想する。
京都も唐辛子が名物だと知らなかったのか、花外自身の判断は異なる。「納豆は、大豆の腐ったのと人は言ふが、此種の、奇な変つた味を好くのも、亦江戸的趣味が残つた所だらう」と決め付けると、「唐辛は、強い激しい刺戟を好む東京ッ子に、是非無くてならぬ香料である」と。要は、東京人は一風変わった刺激的な食物を求めるが故に、納豆や七味唐辛子を偏愛するのだという了解の仕方。だが“奇妙な味”は唐辛子と納豆に限るまい。なぜ、唐辛子と納豆なのか?
江戸時代から馴染み深い納豆のぼてふりだが、(寺田寅彦の随筆などから)明治期に町中を徘徊する七味唐辛子の売り子の存在も確かだ。花外の東京時代に唐辛子売りと遭遇していたかもしれず、そのぼてふり関連による連想から、唐辛子と納豆を東京人の嗜好品として列挙したのではないかとも夢想する。現実問題、七味唐辛子と納豆という組み合わせはなかなか悪くないもの。
参考文献:児玉花外『東京印象記』(金尾文淵堂)
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