高校野球発祥の地
また一九一三年には、(箕面有馬電気軌道=現・阪急電鉄)沿線の豊中に新たに駅を開設するとともに、当時としては最大級の施設を有する豊中運動場を作り、その二年後には大阪朝日新聞社が主催する全国中等学校優勝野球大会を誘致し、記念すべき第一回大会をここで開いている。
☆
ただ特筆すべきは、一九一六年に阪神(=阪神電気鉄道)が鳴尾にあった競馬場内に野球場を開設したことである。これにより、豊中で行われていた中等学校野球大会は、鳴尾で開かれるようになり、さらに干支でいう甲子(きのえね)の年に当たる一九二四(大正十三)年には、約六万人を収容できる巨大スタジアム、阪神甲子園球場が完成し、観客のために甲子園駅が作られた。大会がここに移ることで、中等学校野球の人気は全国的なものとなり、野球はポピュラーな競技となっていった。
☆
「全国高等学校野球選手権大会」(夏の全国
高校野球大会)の前身が「全国中等学校優勝
野球大会」。大正13年、甲子園(兵庫県)での
第10回大会までは、大阪府の豊中運動場で
開催されていました。「箕輪橋」から坂道を下り、
「久保公園」(久保池を埋め立て、平成4年3月
オープン)前を上がって、阪急・豊中駅に向かう
道すがら、左手に位置しています。昭和63年
(1988)、単なる空き地が「高校野球発祥の地
記念公園」として立派にリニューアル整備された
ことを覚えていますよ。現在のぼくの興味を引くのは、
豊中グラウンドの外周を囲んでいた 高さ約1mの赤い
煉瓦塀の一部が残され、大切に使用されていることです。
参考文献:原武史『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社学術文庫)
参考記事:豊中市 ― 高校野球発祥の地
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ただ特筆すべきは、一九一六年に阪神(=阪神電気鉄道)が鳴尾にあった競馬場内に野球場を開設したことである。これにより、豊中で行われていた中等学校野球大会は、鳴尾で開かれるようになり、さらに干支でいう甲子(きのえね)の年に当たる一九二四(大正十三)年には、約六万人を収容できる巨大スタジアム、阪神甲子園球場が完成し、観客のために甲子園駅が作られた。大会がここに移ることで、中等学校野球の人気は全国的なものとなり、野球はポピュラーな競技となっていった。
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「全国高等学校野球選手権大会」(夏の全国

高校野球大会)の前身が「全国中等学校優勝
野球大会」。大正13年、甲子園(兵庫県)での
第10回大会までは、大阪府の豊中運動場で
開催されていました。「箕輪橋」から坂道を下り、
「久保公園」(久保池を埋め立て、平成4年3月
オープン)前を上がって、阪急・豊中駅に向かう
道すがら、左手に位置しています。昭和63年
(1988)、単なる空き地が「高校野球発祥の地
記念公園」として立派にリニューアル整備された
ことを覚えていますよ。現在のぼくの興味を引くのは、
豊中グラウンドの外周を囲んでいた 高さ約1mの赤い
煉瓦塀の一部が残され、大切に使用されていることです。
参考文献:原武史『「民都」大阪対「帝都」東京』(講談社学術文庫)
参考記事:豊中市 ― 高校野球発祥の地
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