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納豆売りのいる食卓

変わるものもあれば、変わらないものもある。至って当たり前のことだが、歴史に学ばなければ、昔も今も人々は相も変わらぬ生活を続けてきたかのように、ついつい錯誤してしまう。例えば、日本の伝統食品である豆腐。近世の村や町には豆腐屋が必ずあって……なんてことはない。「豆腐屋なんてありゃせん。豆腐屋ができたのは最近だと言ってもええくらいじゃ」とは、明治26年(1983)生まれの名古屋市近郊大森村に生まれた女性の証言。そんな時代・地域のリアルな食生活に迫る『おばあちゃんからの聞き書き 明治・大正・昭和の食卓』(グラフ社)から、納豆の登場する場面をピックアップ。

その昔は、豆腐屋さんも天秤をかついでラッパで売りに来てました。トーフーって。両方の天秤に水入れてたんだから大変でしたよね。たまには納豆も、ナットナットナットーって売りに来てました。でも、納豆のほうはあまり買った記憶がないですよね」峰崎きん(取材時89歳)――明治41年(1908)、千葉県東葛飾郡行徳町(現 ・ 市川市)の、江戸時代から「浅子周慶」の号を継ぐ神輿屋の家に生まれる。3歳のとき父が亡くなったため、16歳の姉が婿をもらってあとを継ぎ、きんさんは東京・馬喰町の雑貨問屋に奉公に出たあと、製紙会社の技術者と結婚、その後もずっと行徳に在住。

朝ご飯には納豆もよく食べました。毎朝、天秤をかついで『なっと〜にみそまめ〜』って言いながら売りに来るの。天秤の先に籠がぶら下がっていて、一つには納豆、もう一つには味噌豆が入っていました。納豆は一つずつ藁苞に入っているのを、こちらが出した器に箸で手際よく移してくれて、刻みねぎ、青海苔、辛子をのせてくれたものです」木下喜代(取材時84歳)――大正4年(1915)、東京浅草・千束の生まれ。浅草生まれの浅草育ちで、お祭りと芸事が大好きな江戸っ子。丸の内のOL生活を体験後、親の決めた縁談を断って同じ浅草育ちの夫と結婚、3男を育てながら地元で製靴業を営む。

戦前の東京・関東地方での納豆売りの姿が生き生きと浮かび上がる、興味深い証言である。現在では納豆の辛子やたれ、豆腐の水も商品本体と一緒にパックされていて当前のようだが、昔は個別に提供されていた訳。主婦がボウルなどを持って豆腐を買いに行くくらいならば想像もたやすいが、納豆ですら持参した器に移してもらっていた時代があったのだ。

参考文献:ハウス食品株式会社ヒーブ室『おばあちゃんからの聞き書き 明治・大正・昭和の食卓』(グラフ社)
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歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
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