甘い赤飯
「納豆」を糸引き納豆、すなわち納豆菌による無塩発酵大豆食品と受け取るか、あるいは麹菌の発酵による寺納豆(一休納豆、浜納豆など)と取るか――いずれにしても、甘納豆はいわゆる「納豆」とは似て非なるもの。が、今回は甘納豆の意外な使用法を紹介しよう。『広辞苑』によれば「甘納豆」は「アズキ・キントキ・インゲンなどの豆類をゆでて糖蜜で煮つめ、汁気をよく切って砂糖をまぶした菓子」とある。明らかに菓子である。が、これを赤飯に用いる地域が現存するのだ。小豆でもなければ、ささげでもなく、甘納豆。
野瀬泰申『天ぷらにソースをかけますか?』を読むと、インターネットを介して集積された全国各地域の食文化のタペストリーを一望できる。その中でも、北海道(函館)や青森では甘納豆を使った“甘納豆赤飯”が存在するという事実に驚かされてしまう。もちろん、該当地域に住まう人らにすれば、それが通常の食文化なのだろうけれども。
青森市出身の女性の情報によると、「近所の食料品店では赤飯用の甘納豆(甘納豆と食紅が一緒になっていて、米と一緒に炊くと赤くて甘い赤飯ができるというもの)を売っていたという記憶があります」と。
食紅でピンク色に染めたご飯に、甘納豆をまぶして作る赤飯というルーツは、北海道の光塩学園女子短期大学の創立者、南部明子氏が、簡単・手軽に作れるという狙いから発案し、料理講習会で紹介し、広まったものらしい。同短大のホームページ、「沿革」の書き出しに「甘納豆入り赤飯が北海道特有のものだと知っていましたか。実は、この甘納豆入り赤飯を考え普及させたのは、本学初代学長の南部明子先生なのです」と、堂々と掲げられている。
昭和32年(1957)にHBCテレビ(北海道放送)が札幌に開局。直後から南部氏は料理講師としてレギュラー出演。同局のラジオ放送開始が、その5年前の昭和27年(1952)であり、そこでも南部氏が開局と同時に北海道式赤飯の作り方を伝授していたならば、半世紀以上前に北海道式赤飯は産声を上げ、道内に伝播し、東北にも伝わったと推測される。もち米とうるち米を半々の分量で、食紅を混ぜ、ピンクに炊き上げる。ご飯が炊けたら甘納豆を入れ、一緒に蒸す。炊飯器ひとつで作れる手間要らずなレシピは、戦後の女性の社会進出を南部氏が念頭に置いていたためだとか。
参考文献:野瀬泰申『天ぷらにソースをかけますか?』(新潮文庫)

野瀬泰申『天ぷらにソースをかけますか?』を読むと、インターネットを介して集積された全国各地域の食文化のタペストリーを一望できる。その中でも、北海道(函館)や青森では甘納豆を使った“甘納豆赤飯”が存在するという事実に驚かされてしまう。もちろん、該当地域に住まう人らにすれば、それが通常の食文化なのだろうけれども。
青森市出身の女性の情報によると、「近所の食料品店では赤飯用の甘納豆(甘納豆と食紅が一緒になっていて、米と一緒に炊くと赤くて甘い赤飯ができるというもの)を売っていたという記憶があります」と。
食紅でピンク色に染めたご飯に、甘納豆をまぶして作る赤飯というルーツは、北海道の光塩学園女子短期大学の創立者、南部明子氏が、簡単・手軽に作れるという狙いから発案し、料理講習会で紹介し、広まったものらしい。同短大のホームページ、「沿革」の書き出しに「甘納豆入り赤飯が北海道特有のものだと知っていましたか。実は、この甘納豆入り赤飯を考え普及させたのは、本学初代学長の南部明子先生なのです」と、堂々と掲げられている。
昭和32年(1957)にHBCテレビ(北海道放送)が札幌に開局。直後から南部氏は料理講師としてレギュラー出演。同局のラジオ放送開始が、その5年前の昭和27年(1952)であり、そこでも南部氏が開局と同時に北海道式赤飯の作り方を伝授していたならば、半世紀以上前に北海道式赤飯は産声を上げ、道内に伝播し、東北にも伝わったと推測される。もち米とうるち米を半々の分量で、食紅を混ぜ、ピンクに炊き上げる。ご飯が炊けたら甘納豆を入れ、一緒に蒸す。炊飯器ひとつで作れる手間要らずなレシピは、戦後の女性の社会進出を南部氏が念頭に置いていたためだとか。
参考文献:野瀬泰申『天ぷらにソースをかけますか?』(新潮文庫)
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