納豆坊主
昭和11年(1922)頃、かつて在った“吉原”という町で、
酔いどれていた安藤鶴夫(1908~1969)が、納豆売りを
一刻の“友”とし、吉原で顔が売れることになった顛末を――。
☆
銀座、仲見世、江戸二といった足取りで、更けるにしたがって、やがて串平へ近づくというのが、当時荒寥たるぼくの酔いどれ地図だったのだが、もうひとついわせてもらえば、酒だけが欲しくッて、あれが二の次ぎ三の次ぎというものが、実は恋女房に死なれて、間のないときのことだったからである。
そのぼくが、一躍、助六糞をくらえで、江戸町二丁目の両側の店々から声をかけられるようになったのは、かかって納豆ゆえであるといったばかりでは、お題噺にもなるまい。
連れが帰ったまでは、ぼんやり知っているものの、その店だけでの、たとえば向島の花の噂だとか、相撲だとか、顔見世だとかいったその季節季節の世間話をする程度の、この近くに住む定連が、ふたり帰り、ひとり帰りして、ぽとりと、ひとり取り残されたのを気がついたときは、うッすら表に陽がさしてきて、ゆうべのままの電灯がまだしらしらとともされてあった。
主はとッくに寝ちまったのであろうが、気の毒に、かみさんが起きていてくれて、台所でことりことりと刻みものをしていたのをやめて、暖簾(のれん)から顔を出すと、雑炊でもこしらえる? と訊いてくれたのに逆(さから)って、もう一本と熱いのを注文したが、さアさびしい。
身を切られるようなさびしさである。
つまんなくなって、椅子を表へ持ち出すと、茶碗で飲んだ。……吉原にとって、しらしら明けほどしずかなひとときはあるまい。
やがて、ぼくは地獄で仏にめぐり逢えたのである。すなわちぼくは、はるか京町(きょうまち)の角から曲ってきわめて落着いた足取りではあるが、徐々に近づいてくるともだちを発見して、むらむらと、たまらない生きがいを感じた。
納豆屋である。古風に天秤(てんびん)をになって、まえうしろに竹の籠をさげた中に、納豆の苞(つと)が首を出している。近づくと、また驚いたことなのだが、これも古風な手甲(てっこう)をしている。
友来たる。ぼくはいよいよ激しい生きがいを感じた。
当時まだ、江戸ッ子だってねえ、寿司オ食いねえなどというデロレン祭文の文句はいまほどはやってはいなかったのだが、おそらくそれに似たきざな台詞(せりふ)をいったかもしれない。
無理に引ッ張り込んで、ぼくは納豆屋に酒をついだ。思えばとんと『らくだ』の屑屋の形である。さすがに家族の人数まではいわなかったが、ごらんのとおりいま出てきたばかりなので、まだこのとおり納豆は売れていない、これを売ってから、今度は出直してまた屋台を引いて、香のものや富貴豆(ふきまめ)やなんかを売りに出なければなりませんのでというのを、失敬だが、じゃあ納豆はみんな売ってもらおうじゃアないか、ねえ、そんなら納豆を持って歩くだけの時間をつき合ッたッていいだろうとまで段取りをつけたので、友はやむなく、おでんの皿などを取り上げたのである。どうします? こんなに納豆を、とかみさんが半分笑って、半分顔をしかめたので、よし、くばってこようと、ぼくは持てるだけの納豆を抱えると、へい、お早うございと挨拶をしながら、江戸町二丁目の、そこの両側を軒並みに、なんども店へ戻ってはまた抱え、ご均等に二本ずつ、それをくばって歩いたのである。
くばり終わって帰ってみると、友はすでにいなかった。……
が、以来、ぼくが串平へ通う道すがら、両側から、煙管(きせる)の雨こそ降らなかったが、ぼくの異名はかしましく叫ばれた。だれあろう、江戸二で鳴らした“納豆坊主”こそは、ほかならぬこのぼくである。
ただし、納豆は、当時四本で十銭だった。
参考文献:安藤鶴夫『わが落語鑑賞』(河出文庫)
酔いどれていた安藤鶴夫(1908~1969)が、納豆売りを
一刻の“友”とし、吉原で顔が売れることになった顛末を――。
☆
銀座、仲見世、江戸二といった足取りで、更けるにしたがって、やがて串平へ近づくというのが、当時荒寥たるぼくの酔いどれ地図だったのだが、もうひとついわせてもらえば、酒だけが欲しくッて、あれが二の次ぎ三の次ぎというものが、実は恋女房に死なれて、間のないときのことだったからである。
そのぼくが、一躍、助六糞をくらえで、江戸町二丁目の両側の店々から声をかけられるようになったのは、かかって納豆ゆえであるといったばかりでは、お題噺にもなるまい。
連れが帰ったまでは、ぼんやり知っているものの、その店だけでの、たとえば向島の花の噂だとか、相撲だとか、顔見世だとかいったその季節季節の世間話をする程度の、この近くに住む定連が、ふたり帰り、ひとり帰りして、ぽとりと、ひとり取り残されたのを気がついたときは、うッすら表に陽がさしてきて、ゆうべのままの電灯がまだしらしらとともされてあった。
主はとッくに寝ちまったのであろうが、気の毒に、かみさんが起きていてくれて、台所でことりことりと刻みものをしていたのをやめて、暖簾(のれん)から顔を出すと、雑炊でもこしらえる? と訊いてくれたのに逆(さから)って、もう一本と熱いのを注文したが、さアさびしい。
身を切られるようなさびしさである。
つまんなくなって、椅子を表へ持ち出すと、茶碗で飲んだ。……吉原にとって、しらしら明けほどしずかなひとときはあるまい。
やがて、ぼくは地獄で仏にめぐり逢えたのである。すなわちぼくは、はるか京町(きょうまち)の角から曲ってきわめて落着いた足取りではあるが、徐々に近づいてくるともだちを発見して、むらむらと、たまらない生きがいを感じた。
納豆屋である。古風に天秤(てんびん)をになって、まえうしろに竹の籠をさげた中に、納豆の苞(つと)が首を出している。近づくと、また驚いたことなのだが、これも古風な手甲(てっこう)をしている。
友来たる。ぼくはいよいよ激しい生きがいを感じた。
当時まだ、江戸ッ子だってねえ、寿司オ食いねえなどというデロレン祭文の文句はいまほどはやってはいなかったのだが、おそらくそれに似たきざな台詞(せりふ)をいったかもしれない。
無理に引ッ張り込んで、ぼくは納豆屋に酒をついだ。思えばとんと『らくだ』の屑屋の形である。さすがに家族の人数まではいわなかったが、ごらんのとおりいま出てきたばかりなので、まだこのとおり納豆は売れていない、これを売ってから、今度は出直してまた屋台を引いて、香のものや富貴豆(ふきまめ)やなんかを売りに出なければなりませんのでというのを、失敬だが、じゃあ納豆はみんな売ってもらおうじゃアないか、ねえ、そんなら納豆を持って歩くだけの時間をつき合ッたッていいだろうとまで段取りをつけたので、友はやむなく、おでんの皿などを取り上げたのである。どうします? こんなに納豆を、とかみさんが半分笑って、半分顔をしかめたので、よし、くばってこようと、ぼくは持てるだけの納豆を抱えると、へい、お早うございと挨拶をしながら、江戸町二丁目の、そこの両側を軒並みに、なんども店へ戻ってはまた抱え、ご均等に二本ずつ、それをくばって歩いたのである。
くばり終わって帰ってみると、友はすでにいなかった。……
が、以来、ぼくが串平へ通う道すがら、両側から、煙管(きせる)の雨こそ降らなかったが、ぼくの異名はかしましく叫ばれた。だれあろう、江戸二で鳴らした“納豆坊主”こそは、ほかならぬこのぼくである。
ただし、納豆は、当時四本で十銭だった。
参考文献:安藤鶴夫『わが落語鑑賞』(河出文庫)
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