船場川の橋(4)
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いきます。「福中橋」(左上画像)に立ち、下流を
見遣ると、「みどり橋」が早くも目に入ります。
「福中橋」は「白鷺橋」と同様、“船場八景”に
選出されているかと思われるのですが、「福中橋
夕照」と題して、「夕日照る福中橋に旅人は
旅籠屋町を指して急がん」と歌われたのは、
新設された「みどり橋」(左下画像)辺りである
模様。橋の名称と位置とが異なってくる事例は、
大阪市内でも多々あり、学ばされてきました。
「福中橋」と新設「みどり橋」の間、船場川の
右岸に、「姫路城」の「備前門橋跡」の復元
レプリカ(右下画像)が展示されていました。
4本(?!)の直方体の延石(のべいし)や、親柱が
立っていたと思われる穴も開いている礎石が
どういう役目を果たしていたのか、解説も行き
届いていて、なるほどと感心させられましたよ。
「備前門(橋跡)」について、平成28年(2016)
3月、姫路市教育委員会の解説は以下の如し。
☆
姫路城は外曲輪(そとぐるわ)から城外に備前門

・飾万(しかま)門・北条門・外京口門・竹ノ門が
開かれていた。備前門(備前口門)は西に西国
街道、南西に室津(むろつ)道、飾万門(飾磨津
門)は姫路港外港の飾磨津までの飾磨街道、
北条門は妻鹿(めが)・松原道、外京口門は東に
西国街道、東北に丹波道、竹ノ門は東に丹波
道が通じていた。
備前門は東の外京口門から城内外曲輪に
通じる西国街道の西の出入口として備前に向かうことが名称の由来であるが、
酒井家当主は代々四品(しほん)の雅楽頭(うたのかみ)に叙任され、酒井忠道
(ただひろ)が隠居後に主計頭(かずえのかみ)、次いで文政五年(一八二二)備前守と
改称したことにより藩は触れをもって備前の字を避け福中門とした。
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