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蒟蒻売りから西洋菓子王へ

近代立志伝を彩る成功者たちの経歴をざっと眺める。成功譚なのだから、物語パターンの定石として、駆け出しの時代が設けられなければならない。最初から成り上がりがお膳立てされているようでは、読者も燃えない。そうした顔触れから浮かび上がってくる仕事が、豆腐の棒手振り、納豆売り、こんにゃく売りなどの姿。一昔前の昭和時代ならば、ちょうど新聞配達少年などに該当したのだろうか。現代ならば差し詰め、居酒屋でのアルバイトかとも想像するが、小中学生は就労できないだろうし、貧困児童〜苦学生らが脚光を浴びる時代ではないのかもしれない。

在りし日の日本では、“貧乏”は決して恥ずべきことではなかったのだろう。苦学や刻苦精励といった言葉が、何かしら偽善を意識してしまいがちな現代と異なり、貧困下でも昂然と胸を張り、純粋な気持ちから“経済的成功”に邁進できたように思われる。後ろめたさも覚えず。経済之日本社編輯部編『奮闘努力近代立志伝』に取り上げられた一人、森永太一郎(1865〜1937年)に冠せられた麗句は「蒟蒻の行商人から出世して我國の西洋菓子王となった」――「西洋菓子王」という力感あふれる語感が素敵だ。

森永は、あの「森永製菓」(の前身)の設立者。佐賀県西松浦郡(当時)の伊万里に生まれた太一郎は、母、父と死別し、孤児となる。親戚の家をたらい回しにされながら7、8歳の頃から働き、叔母の老婆心から12〜13歳時は寺子屋で丁稚奉公。そうして13歳の春、寺子屋から暇を貰うと独立して商売を始めた。太一郎が初めて手掛けた商売こそ、実に蒟蒻売りだったところが興味津々。

資本もない彼は座り乍らお客を相手にするような上品な商賣に手を初める事は斷じて出來なかつた。彼の手許には僅かに五十銭銀貨が一枚あるのみである。彼は先づ此の五十銭を如何に使ふかといふ事を考へねばならなかつた。彼の決心はついた。彼は五十銭を携へて蒟蒻の卸屋へ行つてそれを仕入れた。伊萬里と言へば直ぐ後まで山の迫つた町である。重疊の山は隣村へ行くにも嶮岨な山坂を越さねばならぬ。彼は僅か十三にして蒟蒻籠を擔ぎ乍ら近郷数村を行商し初めた。烏の啼かぬ日はあつても彼の窄らしい姿と其の呼び聲の聞えぬ事はなかつた

初期投資が乏しくとも開業が可能だったのが蒟蒻の行商であった訳だ。いつしか太一郎は近郷近在の評判息子となる。顧客も増え、利益も上がるようになったことから、次の名産・伊万里焼の行商に移った。しかし、陶磁器商は思うほどの収益は上がらず、失意と困窮の明治21年(1888)、太一郎は渡米を果たすことになる。

参考文献:経済之日本社編輯部編『奮闘努力近代立志伝』(経済之日本社)
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