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北神明3題

2022_02_05_難波(夕日)神明社
2022_01_11_神明社旧跡
2022_01_24_大阪観世音三十三所_第三番北神明
 「露天神社(=お初天神)」(大阪市北区曽根崎2丁目
 5番4号)境内の東側に、「難波(夕日)神明社」が
 合祀されています(左上画像)。「伊勢神宮」の天照
 皇大神
(あまてらすおおみかみ)を御祭神とする“神明社”は
 全国各地に多々あれど、「露天神社」の「難波神明社」は
 “日本七神明”の一つであり、江戸時代の大坂では、
 社殿が東向きの「朝日神明社」、南向きの「日中神明社」
 と合わせて、“浪速三神明”と呼ばれていたようです。
 この「難波神明社」には(西向きであるが故の)「夕日
 神明社
」以外にも、異名がいくつかあるようで、曰く
 「西天満神明社」、曰く「北神明」。第52代・嵯峨天皇の
 皇子、源融が弘仁12年(821)に創建し、第96代・
 後醍醐天皇の勅願社であったといわれる「難波神明社」
 ですが、天保5年(1834)の火災で社殿を焼失。明治
 42年(1909)の「北の大火」にも被災し、翌43年、現在
 地に合祀されました。元の建立地(大阪市北区曽根崎
 1丁目6-6)には、「神明社旧跡」碑(左中画像)が建つ
 ばかり。玉垣を見ますと、周辺で羽振りを利かしていた
 と思われる某××店グループの役員の名前が席巻し、
 大阪の寺町の周囲がラブホテル街と化していることは
 よくあることと言いながら、栄枯盛衰を感じざるを得ず。
 石碑と現在の「太融寺」は、約300m離れているのです
 けれども、寛政年間の『摂津名所図会』に描かれて
 頃の「太融寺」南門は、“二重門”と呼ばれ、「難波
 神明社」北門と接していたといいますから、「太融寺」は
 当然、「難波神明社」の境内も随分と広かった訳です。
 神明社の境内には、十一面観音を祀る観音堂が在り
 (堂自体は隣の「久松寺」に属していたそうです)、
 “大坂三十三所観音”巡りの“三番札所”とされて
 いました。「久松寺」も神明社同様に焼亡。寺は禅宗
 曹洞宗「円通院」(大阪市北区兎我野町7-8)に移るも、
 門前の石柱(左下画像)には「大阪観世音三十三所 
 第三番 北神明
」と、しっかり、記されています。すぐ
 東隣が「妙香院」。1ブロック西に在る「円通院」墓地
 (兎我野町8)に足を運べば、大石権内良昭(大石
 内蔵助良雄の実父)らの墓に参ることも出来ましたねえ。

参考文献:『太融寺史 ―千二百年の歩み―』(佳木山太融寺)
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テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡仏像

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歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
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