北神明3題
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5番4号)境内の東側に、「難波(夕日)神明社」が
合祀されています(左上画像)。「伊勢神宮」の天照
皇大神(あまてらすおおみかみ)を御祭神とする“神明社”は
全国各地に多々あれど、「露天神社」の「難波神明社」は
“日本七神明”の一つであり、江戸時代の大坂では、
社殿が東向きの「朝日神明社」、南向きの「日中神明社」
と合わせて、“浪速三神明”と呼ばれていたようです。
この「難波神明社」には(西向きであるが故の)「夕日
神明社」以外にも、異名がいくつかあるようで、曰く
「西天満神明社」、曰く「北神明」。第52代・嵯峨天皇の
皇子、源融が弘仁12年(821)に創建し、第96代・
後醍醐天皇の勅願社であったといわれる「難波神明社」
ですが、天保5年(1834)の火災で社殿を焼失。明治
42年(1909)の「北の大火」にも被災し、翌43年、現在
地に合祀されました。元の建立地(大阪市北区曽根崎
1丁目6-6)には、「神明社旧跡」碑(左中画像)が建つ
ばかり。玉垣を見ますと、周辺で羽振りを利かしていた
と思われる某××店グループの役員の名前が席巻し、
大阪の寺町の周囲がラブホテル街と化していることは
よくあることと言いながら、栄枯盛衰を感じざるを得ず。
石碑と現在の「太融寺」は、約300m離れているのです
けれども、寛政年間の『摂津名所図会』に描かれて
頃の「太融寺」南門は、“二重門”と呼ばれ、「難波
神明社」北門と接していたといいますから、「太融寺」は
当然、「難波神明社」の境内も随分と広かった訳です。
神明社の境内には、十一面観音を祀る観音堂が在り
(堂自体は隣の「久松寺」に属していたそうです)、
“大坂三十三所観音”巡りの“三番札所”とされて
いました。「久松寺」も神明社同様に焼亡。寺は禅宗
曹洞宗「円通院」(大阪市北区兎我野町7-8)に移るも、
門前の石柱(左下画像)には「大阪観世音三十三所
第三番 北神明」と、しっかり、記されています。すぐ
東隣が「妙香院」。1ブロック西に在る「円通院」墓地
(兎我野町8)に足を運べば、大石権内良昭(大石
内蔵助良雄の実父)らの墓に参ることも出来ましたねえ。
参考文献:『太融寺史 ―千二百年の歩み―』(佳木山太融寺)
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