厄神明王道
門戸厄神の落語会に出掛ける前、16時から営業していた
門戸厄神「肉焼屋」で腹拵え。お店選びの際、一帯を徘徊
していると、「厄神明王道」の道標を発見。同様の道標が
周辺に3基も在ると、「甲東文化保存会」の懇切丁寧な
説明文によって知ります。若干傾いてはいますけれども、
東西に走る西国街道に面して建てられており、道なりに
位置する「門戸寄席(J:SPACE)」も歴史ある街道筋に
設けられていたことに改めて感じ入った次第。偶然だった
のでしょうか? 現場の兵庫県西宮市下大市西町3丁目
付近は、西国街道とクロスする道路に脇道を加えれば
五差路。北西へ上って行けば、“門戸厄神”へ辿り着き
ますが、「日本三躰 厄神明王道」と左隣の「(すぐ)
加婦と山観音」=「甲山観音」の道標がいずれも移築
された物とあり、具体的な「厄神明王道」のルートは未確認
です。西宮街道の一部である「やくじんさん筋」とは別な
ように思われるのですが……なお、「甲山観音」とは、“日本
三大如意輪”の一体を有する「神呪寺」。まさか、ここで
その名に出喰わすとはね。当然、秘仏なので、おいそれと。
――以下に、「甲東文化保存会」の案内板から転記します。
☆
西国街道(3)
百間樋川石橋を渡り、戌亥石橋を渡って
川沿いにここ百合戸石橋に来る。昭和四十六年
(一九七一)の道路工事では暗渠の中を流れる
ようになり 往古の橋もなくなってしまった。
この近くに三つもの道標 があることでも
わかるように 甲山大師、厄神明王にお詣りする
道が、また尼崎、大坂に通ずる道と脇道が
ここに集っている。
☆
両名刹への道標
甲山観音と門戸厄神への道標で むかし 別々の場所に
あったものを、後年 この場所に移したものである。
この碑の前をほぼ東西に走る道は、約一三〇〇年前の
平安時代 に作られた、後に西国街道と呼ばれるように
なった道で、この二つの碑は信者や巡礼などの参詣者
たちを、それぞれの寺院へあざなう道しるべとして
立てられていたものである。
左の道標は一七四〇年頃の建立で、当時篤志家として
知られた、大坂新町の折屋徳兵衛夫妻の寄進に
なるものである。

門戸厄神「肉焼屋」で腹拵え。お店選びの際、一帯を徘徊
していると、「厄神明王道」の道標を発見。同様の道標が
周辺に3基も在ると、「甲東文化保存会」の懇切丁寧な
説明文によって知ります。若干傾いてはいますけれども、
東西に走る西国街道に面して建てられており、道なりに
位置する「門戸寄席(J:SPACE)」も歴史ある街道筋に
設けられていたことに改めて感じ入った次第。偶然だった
のでしょうか? 現場の兵庫県西宮市下大市西町3丁目
付近は、西国街道とクロスする道路に脇道を加えれば
五差路。北西へ上って行けば、“門戸厄神”へ辿り着き
ますが、「日本三躰 厄神明王道」と左隣の「(すぐ)
加婦と山観音」=「甲山観音」の道標がいずれも移築
された物とあり、具体的な「厄神明王道」のルートは未確認
です。西宮街道の一部である「やくじんさん筋」とは別な
ように思われるのですが……なお、「甲山観音」とは、“日本
三大如意輪”の一体を有する「神呪寺」。まさか、ここで
その名に出喰わすとはね。当然、秘仏なので、おいそれと。
――以下に、「甲東文化保存会」の案内板から転記します。
☆
西国街道(3)
百間樋川石橋を渡り、戌亥石橋を渡って
川沿いにここ百合戸石橋に来る。昭和四十六年
(一九七一)の道路工事では暗渠の中を流れる
ようになり 往古の橋もなくなってしまった。
この近くに三つもの道標 があることでも
わかるように 甲山大師、厄神明王にお詣りする
道が、また尼崎、大坂に通ずる道と脇道が
ここに集っている。
☆
両名刹への道標
甲山観音と門戸厄神への道標で むかし 別々の場所に
あったものを、後年 この場所に移したものである。
この碑の前をほぼ東西に走る道は、約一三〇〇年前の
平安時代 に作られた、後に西国街道と呼ばれるように
なった道で、この二つの碑は信者や巡礼などの参詣者
たちを、それぞれの寺院へあざなう道しるべとして
立てられていたものである。
左の道標は一七四〇年頃の建立で、当時篤志家として
知られた、大坂新町の折屋徳兵衛夫妻の寄進に
なるものである。
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