堂島米市場の跡
生きている時間すら惜しい。ぼくの世界はぼくの頭の中に在り、
貴方の世界では既に亡き者として抹消されていることでしょう。
誰かの夢を喰らって生きているふりをしたところで、ぼくの姿は
貴方には見えない。食事休憩の時間を充てて、曽根崎を離れ、
北新地を抜けると、「堂島米市場」の跡へ足を速めるのでした。
☆
蔵屋敷の件で説明しましたが、「堂島
米市場」で売買されたのは、米切手で
あり、(淀屋の屋敷前で開かれていた
米市みたく)米の現物が持ち込まれる
ことはありません。「中之島ガーデン
ブリッジ」北詰に、“堂島米市場の跡”
(大阪市北区堂島浜1-2)が在り、
安藤忠雄の手掛けたモニュメント
「一粒の光」(2018)等が設置されて
います。北詰の西側には、横江嘉純
(1887~1962)の「稲に遊ぶ子供」
(左下画像)を置いています。昭和28年
(1953)の制作。堂島米市場の繁栄の
跡を記念して、昭和30年(1955)に
寄贈されたそうです。元の立ち位置を
「一粒の光」に譲って、西側に移設
されました。台座に浮き彫りとなった
一字は「濱」――堂島の“浜”ですね。
開発されて間もない堂島新地の浜に
元禄10年(1697)頃、淀屋の米市が移転。享保15年(1730)、“米将軍”(第8代)=
徳川吉宗が堂島米市場を公認したことで、「堂島米会所」の誕生と相成りました。
貴方の世界では既に亡き者として抹消されていることでしょう。
誰かの夢を喰らって生きているふりをしたところで、ぼくの姿は
貴方には見えない。食事休憩の時間を充てて、曽根崎を離れ、
北新地を抜けると、「堂島米市場」の跡へ足を速めるのでした。
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「中之島ガーデンブリッジ」の北詰 |
米市場」で売買されたのは、米切手で
あり、(淀屋の屋敷前で開かれていた
米市みたく)米の現物が持ち込まれる
ことはありません。「中之島ガーデン
ブリッジ」北詰に、“堂島米市場の跡”
(大阪市北区堂島浜1-2)が在り、
安藤忠雄の手掛けたモニュメント
「一粒の光」(2018)等が設置されて
います。北詰の西側には、横江嘉純
(1887~1962)の「稲に遊ぶ子供」
(左下画像)を置いています。昭和28年
(1953)の制作。堂島米市場の繁栄の
跡を記念して、昭和30年(1955)に
寄贈されたそうです。元の立ち位置を
「一粒の光」に譲って、西側に移設
されました。台座に浮き彫りとなった
一字は「濱」――堂島の“浜”ですね。
開発されて間もない堂島新地の浜に
元禄10年(1697)頃、淀屋の米市が移転。享保15年(1730)、“米将軍”(第8代)=
徳川吉宗が堂島米市場を公認したことで、「堂島米会所」の誕生と相成りました。
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