もっこ橋
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「もっこ橋」を渡る前と、渡った後から |
プール代わりにしたようです)の跡を
確かめながら、白川を下ると、風情は
あるけれど、名も無いような橋(?!)が
現れます。ところが、映画のロケにも
使われるなど、大人気の橋ですから、
左岸には橋の通称名「もっこ橋」と、
その由来を記した説明書きが黒板
塀に貼られていました(左上下2点の
画像は、上が左岸から、左が右岸
からの撮影)。文書作成は「水車の
竹中みち」実行委員会。すぐ下流に
在る、水車動力による大正時代の町
工場「竹中精麦所跡」の前の小道を
“水車の竹中みち” と名付けている
ようです。このまま下って行けば、
「堀池橋」。そう言えば、「白川橋」も
洗い晒したように綺麗になっていたな。
☆
白川分水から少し下ったところにある鉄製の一本橋に正式な名前はありませんが、通称「もっこ橋」と呼んでいます。“もっこ”とは持籠(もちこ)の詰まったことばで、藁筵(わらむしろ)の四隅につり縄紐をつけ天秤棒に吊って土砂や農産物などを運ぶ用具のことです。
明治31年(1898)、京都で最初の「龍紋氷室」という製氷会社ができました。(川向いのマンション「ポルト・ド・岡崎」の建つ敷地)。
当時は、気体アンモニアを圧縮させて氷点下にする製造方法でした。その後も昭和55年(1980)まで日本冷蔵株式会社などの変遷を経て現在のニチレイに合併され、製氷工場として稼働していました。
この橋は、氷の保存で湿った「おが屑」(鋸切りから出る木屑)をもっこに盛り、二人の人夫が前後で担ぎ天日干しにするために対岸にあった広場(現・文教小学校校庭)に運ぶ通路として架けられた橋です。
長い歴史上、天然氷室(ひむろ)から運ばれ高貴な人にしか届かなかった夏場の氷が、明治の文明開化以後は流通の発達や氷式冷蔵庫の普及により大衆の需要に供する一大産業となりました。北海道の天然氷を大都市へ船輸送するなどを経て、間もなく機械による人工製氷へと変わって行きます。京都から身を起こした明治の実業家・山田啓介創立の「龍紋氷室」はアメリカ直輸入の機械を設置した草分け工場のひとつでした。
氷に関しては、保存・運送の過程で溶解を防ぐ手立てが大きな問題でした。そこで注目されたのが熱伝導率の低い「おが屑」でしたが、需要が一挙に高まったために安価なものではなくなり、濡れたおが屑を天日乾燥させ再利用されたのです。
電力製氷・冷凍の時代とともに、この橋の元の用途は終わりましたが、岡崎のこの辺りが明治・大正・昭和の一時期、近代先端産業の工場地帯であった数少ない名残です。
今もこの橋の持つレトロな雰囲気は、由来を知る人も少ないまま、ますます多くのファンをもつ存在となっています。
私たち(=「水車の竹中みち」実行委員会)は、この橋の保存運動をしております。
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