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林市蔵の視線

2023_04_04_渡辺義知「林市蔵先生記念像」 土佐堀川沿い、「淀屋橋」南詰の西側に「淀屋の碑」が
 据えられており、そのすぐ西側に“方面委員・民生委員
 始祖 林市蔵先生肖像
”の石柱と共に、「林市蔵先生
 記念像
」が設置されています。大阪府民生委員一同に
 より、昭和28年(1947)秋に建てられ、渡辺義知(1889
 ~1963)の制作。加えて、平成30年(2018)5月には、
 「民生委員制度百周年記念碑」も建てられていますが、
 逆算しますと、大正7年(1918)に民生委員が設けられた
 訳です。林市蔵(1867~1952)は大正6年(1917)、
 山口県知事から大阪府知事に異動。翌年(1918)、知事
 顧問の小河滋次郎と共に、方面委員(民生委員の前身)
 制度を創設し、府に救済課を設置しました。大正7年は
 シベリア出兵や富山県の米騒動で記憶されるばかりか、
 同年から1920年にかけて、全世界的にスペイン風邪が
 流行し、罹患した辰野金吾(1854~1919)も亡くなって
います。同じ頃(1920)、佐伯祐三の兄、「光徳寺」住職の佐伯祐正がセツルメント
(隣保事業)「光徳寺善隣館」を開所したのも、そういった社会的な動向を踏まえての
ことでありましょう。ぼくが気になったのは、それよりも何よりも、林市蔵(先生)の銅像は
何故に腰掛け、何に視線を落としているのか?
 どうして、そのようなポーズを取って
いるのか?という造形的な問題は、当時の人口に膾炙していた有名なエピソードに
準拠していた訳ですけれども、現代では、説明文抜きだと、全く理解しづらい状況です。
       ☆
大正七年 世界大戦の直後 物価奔騰して民衆の苦難甚しく 米騒動勃発して 世相不安を極めた
時の大阪府知事 林市蔵先生
(たまたま)ここ淀屋橋畔の調髪所において鏡面に映る新聞賣母子の憐むべき姿と家庭の窮状に深く心を打たれ これが社会的対策の極めて緊切なるを痛感し 府嘱託小河滋次郎博士の調査研究と慎重考慮の結果 府下に方面委員を設置せられた
これ我國における民生委員制度の嚆矢であり 爾来急速に発達して全國に普及され 社會事業推進の中核をなすに至つた
しかも此の間 林先生には終始一貫熱誠を傾けて 本制度の育成發達に努力せられたが 昭和二十七年二月二十一日 その偉業を遺して逝去せられた
我等府下五千名の民生委員は深く先生の高徳を慕い その功績を讃仰すると共に 民生委員事業今後の發展に資すべく ここに本制度發祥の地に 先生の記念像を建設し これを不朽に傳えんとする
            大阪府知事赤間文三撰並びに書

       ☆
つまり、渡辺義知・制作の銅像は、調髪所(理容室)の席に腰掛けていた折、鏡面に
映る 貧しい新聞売りの親子に眼を留めた瞬間の林市蔵――という設定。和服は市蔵の
普段着なのであります。昭和19年(1944)「方面委員制度ノ由緒」によれば、理髪店
モーラー館」にて、哀れな夕刊売りの母子を見かけたことが、方面委員制度“発祥”の
瞬間と見なされているのですけれど……ただ、歴史的事実としては、大正7年10月9日、
理髪店で夕刊売りの母子の窮状を目撃したことが、制度の着想の契機となるなどとは
あり得ず(2日前に「方面委員規定」交付済み)、時間的な継起としては逆になります。
方面委員制度を発足させたばかりの市蔵の目に、最初の取り扱いケースとなる夕刊
売りの母子の姿が入って来た――という風に考えれば、誰も傷付けずに済みますか。

参考文献:碓井隆次「淀屋橋畔の林市藏先生記念像 : 大阪府方面委員制度の由緒」
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たまに「考える人」、歴史探偵。
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