fc2ブログ

百済橋跡

2023_08_15_百済橋跡_1
「百済橋跡」碑の左側が、難波島パネル
2023_08_15_百済橋跡_2
 「大浪橋」の取り付け道路(大浪通)の
 ガード下を潜ると、道なりに三軒家浜筋
 線を南へ下り、信号の有る三叉路で左
 (東)に折れます。“カド丸”「大和紙料」
 南向かいに建っている「内本商会」
 (大阪市大正区三軒家東2-11-36)
 の隅切り部分に、目指す物件を見つけ
 欣喜雀躍。平成13年(2001)7月に
 大阪市が「百済橋跡」の碑を設置して
 います。親柱も「百済橋」の現物だと
 嬉しいですね。昭和33年(1958)に
 埋め立てられた三軒家川の上流部
 (約340m)に架かっていたのが「百済
 橋」で、百済橋筋線という道路名も
 残されています。かつての三軒家川は
 下流同様、上流も木津川につながって
 いました。その三軒家川は大正区を
 流れていたというよりも、“難波島”を
 流れていたと言えましょう。大阪市の
設けたパネル全文は下記のとおり。「柱の一部は隣に残されています 」との記載は
親柱を指すのかしら。また、「難波島の西側の三軒家川 」に悩まされますが、元の
難波島から分かれての(東側=月正島に対する)西側と解してみますが、如何? 
       ☆
 江戸初期の名所案内書である「芦分船(あしわけぶね)」によれば、「(難波島は)難波につづきたる所也。昔日難波の住人ひらきし所なれば此島の名とするにや」とあり、挿絵として船造りの風景を載せています。その後、元禄12年(1699年)に木津川の流路を一直線にするため河村瑞賢により島の中央部が開削され難波島は東西に分れ、東側を「月正島(がっしょうじま)」(浪速区)と呼び、西側を「難波島(なんばじま)」と言うようになりました。「摂津名所図会大成」には「此地船大工職多く常に海舶を作事す」とあります。木津川交通の要衝として発展し、当地には加賀(現石川県)国等の船宿が見られ、北前船が着船し、二十石積の上荷船(うわにぶね)が86艘あったとされます。
 難波島の西側の三軒家川は一部埋め立てられ、百済橋は廃橋になりましたが、橋の一部は隣に残されています。大正中期には造船所15社が集中し、現在も工場群となっています。島の南端には「木津川防潮水門」と「三軒家水門」があり、防災拠点となっています。
関連記事
スポンサーサイト



テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡

コメントの投稿

Secret

カレンダー
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
Access Counter
総閲覧者数:
Online Counter
現在の閲覧者数:
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリー
プロフィール

ぽか

Author:ぽか
⇒ 旧プロフィール

歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
フードビジネス・コンサルタント
(自称)。
好きな言葉は「ごちそうさま」。

リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
Amazon
QRコード
QR
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メルマガ登録はこちらから
購読希望者はメール・アドレスを書き入れて「送信」してね!
SOUKEN