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五代と鉱山王

織田作の『五代友厚』を読んでいて、このエピソードを知っている
と思い当たり、何のことはない。別のソースから、ぼく自身が昔、
記事を書いたことがある豆腐ネタだった訳で、十年以上を経て、
五代友厚と行き当たる(当時は五代が眼中にありませんでした)
奇縁に感じ入り……ただ、河出文庫版のせいか、わかりませんが、
誤植が多過ぎますねえ。年号や人名等の誤りは、本当に勘弁。
       ☆
 友厚の鉱山経営に就てはなお述べるべき一つの逸話がある。古河市兵衛との交渉である。
 古河市兵衛は天保三年三月十六日、京都岡崎で生れ、幼名を巳之助
(原文は之助)と言った。父の長右衛門は醸酒業を営んでいたが、失敗して市兵衛の生れた頃は天秤棒を担いで豆腐を売り歩いていた。市兵衛も十一歳の時には七歳の弟を連れて、岡崎村から白河辺まで、豆腐を売りに往った。十八歳の時、継母の兄で高利貸をしていた木村理助を頼って奥州盛岡へ行き、高利の取立に使われたが、のち鴻池屋支店の手代になった。鴻池屋は大阪鴻池家の分家草間伊助の支店で、当時南部藩の為替御用掛をしていた。ところが、間もなく鴻池屋がつぶれたので、市兵衛は伯父の肝入りで、小野組の店員であった古河太郎左衛門の養子になり彼も小野組に使われた。ところが、その小野組も明治七年に没落した。そこで市兵衛は殆んど無一文となって小野組を去り、再起の策として、秋田県下阿仁(あに)院内(いんない)其の他諸鉱山の開鑿を計画した。そうしてその稼行を政府へ出願しようとする段になって、市兵衛は既に友厚の手が半田銀山(福島県)から東北各地へ伸びていることを知った。市兵衛の出願した鉱山の一部も、既に友厚の経営に移ろうとしていた。
 市兵衛は友厚に請うた。市兵衛は明治三十三年の九月まで丁髷を切らなかったというから、当時なお昔のままの頭であった。友厚は鹿児島にいる兄の徳夫を想い出して、苦笑した。この漢学者もまた死ぬまで丁髷のままで通した人であった。当然、市兵衛の頭は友厚の開化思想と相容れない。が、友厚は市兵衛の請を容れて、稼行権を市兵衛に譲った。地下資源は国家の財宝である。鉱山業は一個人のいたずらに独占すべきものではないと思ったからである。そうして友厚は稼行権を譲ったばかりでなく、進んで援助した。鉱業人を養成して、民業を大いに弘めようという志からである。ひとつには、市兵衛の志を壮としたからであろう。友厚の眼からは市兵衛の丁髷はまさしく旧弊に見えたが、しかし「鉱山の機械は外国のものを使うが、この日本魂の看板だけは引き下さない」と市兵衛の口から聴いてみると、わが意を得なくもなかったのである。市兵衛の一途を貫く気性に惚れこんだかとも思われる。
 市兵衛はのちに足尾銅山を手に入れ、やがて鉱山王と呼ばれた。


参考文献:織田作之助『五代友厚』(河出文庫)
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ジャンル : 小説・文学

tag : 豆腐

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