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土佐の豆腐は朝鮮由来

高知市周辺の豆腐は朝鮮の食文化の影響下にある」と鄭大聲(チョン・デ・ソン)氏は主張している。

鄭氏が冷や奴で食べた土佐の豆腐は「調理前の大きな豆腐1丁に、箸をぐさりと刺して持ち上げてもくずれない」ほど非常に堅く、「通常の絹ごしや木綿ごしの味わいとは異なり、ざらりとした感触で固いが、豆腐そのものが持つ特有の香りと味覚は同じ」で、この豆腐に鄭氏は「北朝鮮の平壤で食べた豆腐や、母が日本の豆腐を再加工して作った豆腐の感触が思い出されてしまうのだ」と印象批評を述べている。

この説に客観的、実証主義的な根拠を求めると、『皆山集』に行き当たる。以前、「大河ドラマ『功名が辻』県推進協議会」が、映像撮影のために高知県立図書館から借り出した原本の1冊を紛失させたことでニュースになった土佐の藩政史料だが、これは明治維新後、高知県に出仕して諸取調役を歴任した松野尾章行が、郷土史研究の一大集成として集録したもの。全10巻から成るこの書の第9巻に高知の豆腐のルーツが描かれている。

豆腐のことを或る書に伝えて云う。当国には古くは豆腐無く、文禄年中に長宗我部元親、朝鮮国虜人等をひきいてこれに帰りし時、某徒に朴好仁(パクホイン)有り、その子孫なお当国に住みて国守山内一豊公高知城を築きし時、即ち朴氏、今の唐人町に居りて使わる。土佐郡鏡川の北地、此に豆腐製りを始める。すなわち今の秋月某の祖なり

文禄元(1592)年から慶長3(1598)年、豊臣秀吉が李氏朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」において、土佐からは長宗我部元親が3,000の兵を率いて参戦した。1592年2月、長宗我部軍の攻撃を受けて投降した一軍の将が朴好仁。1597年3月、長宗我部軍は帰国、朴好仁を含む30人余りが捕虜として土佐に連れて来られた。

徳川の世に移ると、慶長6(1601)年、土佐藩主として山内一豊が赴任してくる。山内一豊は高知城を築くと同時に、武家屋敷や町民の生業別に居住地を定めたが、この時、朴好仁一族らの唐人屋敷が現在の唐人町に置かれた。「唐人」とは中国の唐に限らず、外国人の総称。豆腐という食品がなかった土佐地方に「豆腐座」を設け、渡来帰化した朴好仁の子孫に新しい食品産業を興させたのである。

参考文献:鄭大聲『食文化の中の日本と朝鮮』(講談社現代新書)
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