なんぞ、なんぞ
日本とコメとの緊密な結び付きは、江戸時代の石高制をみても明らかである。コメは経済の基礎であり、武士の収入や資産、村の規模を示す単位としても用いられていた。古代、「塩」が貨幣の役割を果たした文明があったように、近世日本ではコメが同じような価値を有していた。天領から上がってくる年貢米や諸藩から送られてくる藩米など、100万石のコメが江戸の町には集まってきた。豊作か凶作かで、コメの値段に影響はあるとはいえ、宵越しの金さえあれば、江戸っ子はコメをふんだんに食べられる環境にあったのである。
大抵が日銭で暮らす身分だった江戸庶民は、「百相場」といって100文で買えるだけのコメを毎日調達するのが一般的だったらしい。白いご飯が何よりのごちそうとされ、白米に執着した分、おかずは質素になる。ピカピカの銀シャリのお供に、江戸っ子は何を食べていたか?
台所の設備や一日の収入などを考え合わせると、基本は一汁一菜。朝食ならば、ご飯にみそ汁、漬物。体が資本の職人ともなれば、これに納豆を付けたりする。「納豆とシジミに朝寝おこされる」「納豆を帯ひろどけの人が叫び」といった川柳からも分かるように、てんびん棒を担いだ早朝の振り売りは江戸の風物詩だった。糸引き納豆ばかりでなく、江戸後期になると、細かく叩いた納豆に豆腐や野菜、薬味を加えた「たたき納豆」がよく売れたという。みそ汁の具にして食したとか。
江戸勤番、和歌山藩士の記した『江戸自慢』には「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思わる」とまで書かれている。この当時、納豆を最も多く食べていたのは江戸以北の人たちで、江戸時代初期に水戸光圀が、そば、梅干しとともに納豆の製造を奨励したり、水戸藩の食膳に上せたりしたことがあずかっているようだ。
その水戸藩のわらべ唄の一節に「〜なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞの先に糸つけて〜……」とあり、なぞなぞにもなっている。最後まで歌うと、わらべ唄の中に「な」の字が全部で10文字出てくる。答えは「な」が10文字で「納豆」。大人から子供まで、水戸藩の納豆人気の高さがうかがえるエピソードである。
参考文献:大久保洋子『江戸っ子は何を食べていたか』(青春出版社)
、グルメ文庫編集部編『日本の伝統食』(角川春樹事務所)
大抵が日銭で暮らす身分だった江戸庶民は、「百相場」といって100文で買えるだけのコメを毎日調達するのが一般的だったらしい。白いご飯が何よりのごちそうとされ、白米に執着した分、おかずは質素になる。ピカピカの銀シャリのお供に、江戸っ子は何を食べていたか?
台所の設備や一日の収入などを考え合わせると、基本は一汁一菜。朝食ならば、ご飯にみそ汁、漬物。体が資本の職人ともなれば、これに納豆を付けたりする。「納豆とシジミに朝寝おこされる」「納豆を帯ひろどけの人が叫び」といった川柳からも分かるように、てんびん棒を担いだ早朝の振り売りは江戸の風物詩だった。糸引き納豆ばかりでなく、江戸後期になると、細かく叩いた納豆に豆腐や野菜、薬味を加えた「たたき納豆」がよく売れたという。みそ汁の具にして食したとか。
江戸勤番、和歌山藩士の記した『江戸自慢』には「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思わる」とまで書かれている。この当時、納豆を最も多く食べていたのは江戸以北の人たちで、江戸時代初期に水戸光圀が、そば、梅干しとともに納豆の製造を奨励したり、水戸藩の食膳に上せたりしたことがあずかっているようだ。
その水戸藩のわらべ唄の一節に「〜なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞの先に糸つけて〜……」とあり、なぞなぞにもなっている。最後まで歌うと、わらべ唄の中に「な」の字が全部で10文字出てくる。答えは「な」が10文字で「納豆」。大人から子供まで、水戸藩の納豆人気の高さがうかがえるエピソードである。
参考文献:大久保洋子『江戸っ子は何を食べていたか』(青春出版社)
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