可視化する心たち
「大阪アジアン映画祭」のインディ・フォーラム部門、
3作品目を鑑賞しました。いずれも、「第13回シネアスト
・オーガニゼーション(=CO2)」の助成作品です。
『おっさんのケーフェイ』、『蹄』は一般公募枠、
五十嵐皓子・監督『可視化する心たち』(2017)は
俳優特待生起用枠に当たります。全て76分の上映時間
とはいえ、3本連続で観続けると、さすがに疲れます。
そのせいか、編集はもう少し、ならなかったか?とも。
まず、“心”を可視化する機械というSFチックな設定に、
興趣をそそられたのですが、“心”もまた役者の身体
~演技に準拠するため、展開が今ひとつ納得できず。
「可視化された」と提供されるものが、役者のまた別の
身体表現でしかないため、“心”を可視化するどころか、
“心”からより一層遠ざかっていくように、当初は思われたのでした。
映画が主に視覚芸術であるため、“心”もまた視覚化せざるを得ず、
さらに製作費や技術的な問題点などから、“心”を役者に演じさせる
というのが、現実的な最適解であることは理解できるのですけれども。
俳優特待生だけあって、個々の役者の演技には力が籠もっていました。
対して全体に、心というものに対する掘り下げ方が決定的に不足しているようで、
結局は色恋沙汰、ぐだぐだの三角関係に収斂していく流れが残念過ぎるという。
現象学的に、身体感覚を離れた“心”そのものなんぞ、存在しないという卓見も
一つのエクスキューズでしょうが、ならば、誰の身体感覚に基づく“心”なのか?
その辺りの突っ込み不足が、誰かの作り出した幻影が、誰か特定の一個人として
成立するのは何故か?というナイーヴな問いを有耶無耶にしているようで、もやもや
させられました。そこから、作品の根幹に在るのは、“心”を可視化する機械でなく、
ドッペルゲンガー製造機と考えれば、首肯せざるを得ないのではないでしょうか?
特定の個人像、あくまで視覚的なイメージを増幅させるだけの仕掛けであって、
ひとまず、“心”とは無縁と考えれば? “心”を可視化するのでなく、心の容器
(正確には、機能の現実態)である身体の数が増えて見えるだけでしょ。
そう考えれば、問題は氷解しますが、人間の“心”という興味深い問題設定自体、
雲散霧消してしまい、物語を衝き動かしていた動機までも成立しなくなるのですねえ。

3作品目を鑑賞しました。いずれも、「第13回シネアスト
・オーガニゼーション(=CO2)」の助成作品です。
『おっさんのケーフェイ』、『蹄』は一般公募枠、
五十嵐皓子・監督『可視化する心たち』(2017)は
俳優特待生起用枠に当たります。全て76分の上映時間
とはいえ、3本連続で観続けると、さすがに疲れます。
そのせいか、編集はもう少し、ならなかったか?とも。
まず、“心”を可視化する機械というSFチックな設定に、
興趣をそそられたのですが、“心”もまた役者の身体
~演技に準拠するため、展開が今ひとつ納得できず。
「可視化された」と提供されるものが、役者のまた別の
身体表現でしかないため、“心”を可視化するどころか、
“心”からより一層遠ざかっていくように、当初は思われたのでした。
映画が主に視覚芸術であるため、“心”もまた視覚化せざるを得ず、
さらに製作費や技術的な問題点などから、“心”を役者に演じさせる
というのが、現実的な最適解であることは理解できるのですけれども。
俳優特待生だけあって、個々の役者の演技には力が籠もっていました。
対して全体に、心というものに対する掘り下げ方が決定的に不足しているようで、
結局は色恋沙汰、ぐだぐだの三角関係に収斂していく流れが残念過ぎるという。
現象学的に、身体感覚を離れた“心”そのものなんぞ、存在しないという卓見も
一つのエクスキューズでしょうが、ならば、誰の身体感覚に基づく“心”なのか?
その辺りの突っ込み不足が、誰かの作り出した幻影が、誰か特定の一個人として
成立するのは何故か?というナイーヴな問いを有耶無耶にしているようで、もやもや
させられました。そこから、作品の根幹に在るのは、“心”を可視化する機械でなく、
ドッペルゲンガー製造機と考えれば、首肯せざるを得ないのではないでしょうか?
特定の個人像、あくまで視覚的なイメージを増幅させるだけの仕掛けであって、
ひとまず、“心”とは無縁と考えれば? “心”を可視化するのでなく、心の容器
(正確には、機能の現実態)である身体の数が増えて見えるだけでしょ。
そう考えれば、問題は氷解しますが、人間の“心”という興味深い問題設定自体、
雲散霧消してしまい、物語を衝き動かしていた動機までも成立しなくなるのですねえ。
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tag : 映画
コメントの投稿
心はどこにあるの
“心”を可視化する機械って、映画の中では、どんな装置?
だったのでしょうか。以前、「心はどこにあるのか」が、
“心”に引っかかり、様々に考えたり、それに関する文章を
読んだりしたことを思い出しました。
だったのでしょうか。以前、「心はどこにあるのか」が、
“心”に引っかかり、様々に考えたり、それに関する文章を
読んだりしたことを思い出しました。
あくまでイメージ
配線がいっぱい延びていて、中心部分で、
液体の詰まった縦長の管が立っている感じ。
超音波で、被験者の“心”を云々という設定。
http://www.oaff.jp/2017/ja/program/if03.html
合成映像で、その人の“心”がその機械周辺に
立ち現れるという映像による説明を行っていました。
液体の詰まった縦長の管が立っている感じ。
超音波で、被験者の“心”を云々という設定。
http://www.oaff.jp/2017/ja/program/if03.html
合成映像で、その人の“心”がその機械周辺に
立ち現れるという映像による説明を行っていました。
どこまでも不思議
私には、クローンかなにかを作り出すような装置のイメージ
と重なります(笑)
“心”は、脳が作り出す?もの、みたいに書いている文章が
ありました。
自分の脳なのに、自分でコントロールできない。切ないとか
淋しいとか、自分にとってマイナスなことを感じる“心”も
作り出してくれちゃうのは、なんでだろう。辛いのに…
と重なります(笑)
“心”は、脳が作り出す?もの、みたいに書いている文章が
ありました。
自分の脳なのに、自分でコントロールできない。切ないとか
淋しいとか、自分にとってマイナスなことを感じる“心”も
作り出してくれちゃうのは、なんでだろう。辛いのに…
脳の機能
「切ない」も「淋しい」も、唯の言葉です。
“心”というものを仮定した上で、表現したものですから、
逆に、言葉が無ければどうなのだろう?
……とも疑えないではありません。
ぼく自身の定義によれば、
“心”は、(広い意味での)脳の機能のひとつです。
脳は神経の中枢ですから、
神経の末端まで辿れば、皮膚に至るまで
“心”は見つかるかもしれません。
ただし、実体ではなく。
“心”というものを仮定した上で、表現したものですから、
逆に、言葉が無ければどうなのだろう?
……とも疑えないではありません。
ぼく自身の定義によれば、
“心”は、(広い意味での)脳の機能のひとつです。
脳は神経の中枢ですから、
神経の末端まで辿れば、皮膚に至るまで
“心”は見つかるかもしれません。
ただし、実体ではなく。
う〜ん…
>「切ない」も「淋しい」も、唯の言葉です。
でも、言葉がないと、胸が締め付けられるような感じや、
ドキドキや、胃が痛むような感覚を表せない。
あ、“心”がもたらしたもの?であって、“心”そのもの?
では、ないってことでしょうか。
> 脳の機能のひとつです。
実体がないから不思議です。
宇宙級に(笑)不思議です。
でも、言葉がないと、胸が締め付けられるような感じや、
ドキドキや、胃が痛むような感覚を表せない。
あ、“心”がもたらしたもの?であって、“心”そのもの?
では、ないってことでしょうか。
> 脳の機能のひとつです。
実体がないから不思議です。
宇宙級に(笑)不思議です。
空
宇宙=space=空間
……
“心”は空っぽなのでしょう。
……
“心”は空っぽなのでしょう。
(ー人ー)
……合掌