住井すゑの仕込んだ納豆
エッセイストの増田れい子氏(1929年〜)は、戦後第1号の大卒女性記者として毎日新聞に入社したジャーナリスト。元毎日新聞東京本社論説委員、学芸部編集委員、サンデー毎日記者の肩書も持つ。東京府豊多摩郡杉並町(現・東京都杉並区)に生まれるが、育ちは茨城県稲敷郡牛久村城中(現・牛久市城中町)。茨城といえば、水戸に代表される納豆の本場。「フナの甘露煮と納豆」という小文で、彼女は幼いころの思い出を書き連ねている。
「やはり厳冬期。母は納豆を仕込んだ。夏の間に育て、秋に収穫しておいた大豆をゆっくりやわらかく煮て、新藁で苞(つと)をつくりそこへ詰めて、納屋で寝かせるのである。湯たんぽを抱かせて、熟成を上手に促した。この納豆のふくいくたる芳香、威勢よく引く無数の糸。朝日のさしこむ食卓で糸がまばゆくきらめいたのを思い出す。このときの母の顔もまた見ものだった。いつも立てている眉間のタテの三本ジワは消えていて、喜色満面、母はだんぜん美人になっていた」
「生涯、失意と共に生きた父、その父をときに叱咤、ときに抱擁して根を限りに生きた母(住井すゑ)。この両者がこどもに見せた喜色満面、得意の絶頂と言うにふさわしい顔貌はフナと納豆というたべものを振る舞ったときにあらわれた。思えば、私たちこどもは親の笑顔をごちそうとして育ったのであった。父の死後、母は看病から解放され、年来のテーマである部落差別の根源に切りこむべく『橋のない川』(七部)の執筆に取りかかった。そのとき五十五歳。一九九七年九十五歳で命を終ったが、その体力を支えたのは一にも二にも貧窮時代に身についた食習慣であったと思う」
厳寒期にフナの甘露煮を仕込んだ増田の父とは、編集者であり、農民文学者であった犬田卯(しげる)。自身の郷里である牛久村城中に隠遁し、妻の住井すゑと共に、執筆と農作物の自給生活を送った。いつの時代にも貧困はあったのかもしれないが、そのことよりも、母親がこしらえた納豆が自然と身の回りにあるという生活によって、失われた昭和の風景を目の前に突きつけられ、別な意味での豊かさを教えられるような気がする。
参考文献:『あの日、あの味 〜「食の記憶」でたどる昭和史〜』(東海教育研究所)
「やはり厳冬期。母は納豆を仕込んだ。夏の間に育て、秋に収穫しておいた大豆をゆっくりやわらかく煮て、新藁で苞(つと)をつくりそこへ詰めて、納屋で寝かせるのである。湯たんぽを抱かせて、熟成を上手に促した。この納豆のふくいくたる芳香、威勢よく引く無数の糸。朝日のさしこむ食卓で糸がまばゆくきらめいたのを思い出す。このときの母の顔もまた見ものだった。いつも立てている眉間のタテの三本ジワは消えていて、喜色満面、母はだんぜん美人になっていた」
「生涯、失意と共に生きた父、その父をときに叱咤、ときに抱擁して根を限りに生きた母(住井すゑ)。この両者がこどもに見せた喜色満面、得意の絶頂と言うにふさわしい顔貌はフナと納豆というたべものを振る舞ったときにあらわれた。思えば、私たちこどもは親の笑顔をごちそうとして育ったのであった。父の死後、母は看病から解放され、年来のテーマである部落差別の根源に切りこむべく『橋のない川』(七部)の執筆に取りかかった。そのとき五十五歳。一九九七年九十五歳で命を終ったが、その体力を支えたのは一にも二にも貧窮時代に身についた食習慣であったと思う」
厳寒期にフナの甘露煮を仕込んだ増田の父とは、編集者であり、農民文学者であった犬田卯(しげる)。自身の郷里である牛久村城中に隠遁し、妻の住井すゑと共に、執筆と農作物の自給生活を送った。いつの時代にも貧困はあったのかもしれないが、そのことよりも、母親がこしらえた納豆が自然と身の回りにあるという生活によって、失われた昭和の風景を目の前に突きつけられ、別な意味での豊かさを教えられるような気がする。
参考文献:『あの日、あの味 〜「食の記憶」でたどる昭和史〜』(東海教育研究所)
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