銅閣=祇園閣
「高台寺」駐車場にバスを停めると、「大雲院」へ出発。
“ねねの道”を取り、歩を進めます。同院は天正15年
(1587)、織田信長・信忠の菩提を弔うために、正親町
天皇の勅命により創建。訪れた日は、仏像ではなく、
近代建築モードに入っていたため、本尊の丈六阿弥陀
如来坐像にも今ひとつ、つれなかったかもしれません。
境内には信長・信忠碑や石川五右衛門の墓も在り。
☆
さて、現在同院が位置する地は元、大倉財閥の創始者、
大倉喜八郎の別荘。その一部として建てられたのが
「祇園閣」となります。昭和3年(1928)の建立で、
鉄筋コンクリート造り、3階建ての高さ120尺(36m)。
小さな画像ではわかりにくいですが、祇園祭の鉾を
モチーフにしており、その尖端には金鶴が輝いています。
1階の両扉にも鶴のレリーフが施されており、
施主の大倉喜八郎が鶴を好んでいたことが理由だとか。
屋根は銅板葺き。金閣、銀閣寺に続いての“銅閣(寺)”を目したのです。
☆
設計は伊東忠太(1867~1954)。建築家以上に建築史家として重要。
法隆寺が日本最古の建築であることを論説し(例のエンタシス論は措いておく)、
日本建築史を創始。従来の「造家」という語を「建築」に改めたともいわれています。
施主は伊東に無理難題を吹きかけたようですが、設計者も負けず劣らず、
自分の趣味を全開にしているように感じられました。
電球を捧げ持つようにした怪物の意匠など、ユーモラスで愉快になります。
「予は何の因果か、性来、お化けが大好きである」という伊東なのでした。
参考記事:松岡正剛の千夜千冊 730夜
「大雲院」を辞した後は、“ねねの道”を後戻り。
駐車場前の「湖月茶屋」で一服しました。
疲れた身体に、ソフト・クリームやグリーン・ティーが
あっと言う間に吸い込まれ、消えていきました。

“ねねの道”を取り、歩を進めます。同院は天正15年
(1587)、織田信長・信忠の菩提を弔うために、正親町
天皇の勅命により創建。訪れた日は、仏像ではなく、
近代建築モードに入っていたため、本尊の丈六阿弥陀
如来坐像にも今ひとつ、つれなかったかもしれません。
境内には信長・信忠碑や石川五右衛門の墓も在り。
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さて、現在同院が位置する地は元、大倉財閥の創始者、
大倉喜八郎の別荘。その一部として建てられたのが
「祇園閣」となります。昭和3年(1928)の建立で、
鉄筋コンクリート造り、3階建ての高さ120尺(36m)。
小さな画像ではわかりにくいですが、祇園祭の鉾を
モチーフにしており、その尖端には金鶴が輝いています。
1階の両扉にも鶴のレリーフが施されており、
施主の大倉喜八郎が鶴を好んでいたことが理由だとか。
屋根は銅板葺き。金閣、銀閣寺に続いての“銅閣(寺)”を目したのです。
☆
設計は伊東忠太(1867~1954)。建築家以上に建築史家として重要。
法隆寺が日本最古の建築であることを論説し(例のエンタシス論は措いておく)、
日本建築史を創始。従来の「造家」という語を「建築」に改めたともいわれています。
施主は伊東に無理難題を吹きかけたようですが、設計者も負けず劣らず、
自分の趣味を全開にしているように感じられました。
電球を捧げ持つようにした怪物の意匠など、ユーモラスで愉快になります。
「予は何の因果か、性来、お化けが大好きである」という伊東なのでした。
参考記事:松岡正剛の千夜千冊 730夜
「大雲院」を辞した後は、“ねねの道”を後戻り。
駐車場前の「湖月茶屋」で一服しました。
疲れた身体に、ソフト・クリームやグリーン・ティーが
あっと言う間に吸い込まれ、消えていきました。
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