こんにゃく王国は一日にしてならず (2)
こんにゃく生産において、群馬は9割近くのシェアを有する王国を築き上げた。群馬が絶対王者になれた理由として3点挙げられる。第1に改良品種の誕生。在来種と支那種を交配した、品質に優れかつ病気にも強い品種「はるなくろ」や「あかぎおおだま」が普及し、収穫が安定した。第2に、激しい相場変動と投機性とは切り離せないこんにゃくと、熱しやすく冷めやすい上州人気質のウマが合ったこと。気まぐれでどう転ぶか分からないこんにゃくは、それに付き合う人々の気質も選んだようである。もうひとつの要因は何か? そこには、日本の戦後史の一端が見え隠れする。
戦前までは、広島、群馬、岡山、福島、茨城の5県がこんにゃく生産量の上位を争っていた。昭和26(1951)年、群馬が戦後初めて生産量ナンバーワンの座を射止め(全国シェアは18%)、以降、群馬はこんにゃく生産量の全国シェアを増やし続けるが、同時にこんにゃくの栽培面積も拡大の一途をたどる。
昭和27(1952)年、群馬、茨城、静岡の3県は各400ヘクタール台で横並びだったが、昭和39(1964)年には、茨城の約1,200ヘクタール、静岡の約600ヘクタールに対して、群馬は約3,500ヘクタールと実に9倍近くまで増やしている。この急激な拡張を促したのが、意外にもコンクリート・ブロックという、こんにゃくとは似ても似つかぬものだった。
こんにゃくのメッカともいえる渋川市や旧子持村の位置する群馬県中央部は、6世紀の榛名山の大噴火で噴き上げた軽石が厚く堆積している。この数メートルに及ぶ豊富な軽石層のお陰で、昭和20〜30年代にかけて、渋川市を中心に群馬県内で多くのブロック業者が誕生した。彼らは採掘した軽石にコンクリートを混ぜて軽量ブロックを生産したが、山林を切り開いた採掘跡に土が埋め戻された結果、何もないさら地が残った。そこに植えられたのが、火山灰の礫質土壌に適したこんにゃくだったというわけ。
昭和39年といえば、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックの開催された年。戦後の復興期から高度成長期にかけて、都心部での建設ラッシュを支えた陰の功労者がコンクリート・ブロックで、一般住宅の外壁や塀、ビルの間仕切り用にブロックの需要が増大するに伴い、群馬のこんにゃく栽培地も急増していったのである。
参考文献:武内孝夫『こんにゃくの中の日本史』(講談社現代新書)
戦前までは、広島、群馬、岡山、福島、茨城の5県がこんにゃく生産量の上位を争っていた。昭和26(1951)年、群馬が戦後初めて生産量ナンバーワンの座を射止め(全国シェアは18%)、以降、群馬はこんにゃく生産量の全国シェアを増やし続けるが、同時にこんにゃくの栽培面積も拡大の一途をたどる。
昭和27(1952)年、群馬、茨城、静岡の3県は各400ヘクタール台で横並びだったが、昭和39(1964)年には、茨城の約1,200ヘクタール、静岡の約600ヘクタールに対して、群馬は約3,500ヘクタールと実に9倍近くまで増やしている。この急激な拡張を促したのが、意外にもコンクリート・ブロックという、こんにゃくとは似ても似つかぬものだった。
こんにゃくのメッカともいえる渋川市や旧子持村の位置する群馬県中央部は、6世紀の榛名山の大噴火で噴き上げた軽石が厚く堆積している。この数メートルに及ぶ豊富な軽石層のお陰で、昭和20〜30年代にかけて、渋川市を中心に群馬県内で多くのブロック業者が誕生した。彼らは採掘した軽石にコンクリートを混ぜて軽量ブロックを生産したが、山林を切り開いた採掘跡に土が埋め戻された結果、何もないさら地が残った。そこに植えられたのが、火山灰の礫質土壌に適したこんにゃくだったというわけ。
昭和39年といえば、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックの開催された年。戦後の復興期から高度成長期にかけて、都心部での建設ラッシュを支えた陰の功労者がコンクリート・ブロックで、一般住宅の外壁や塀、ビルの間仕切り用にブロックの需要が増大するに伴い、群馬のこんにゃく栽培地も急増していったのである。
参考文献:武内孝夫『こんにゃくの中の日本史』(講談社現代新書)
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