倫敦塔の Jane Grey
ポール・ドラローシュ(1797~1856)の「レディ・ジェーン・グレイの処刑」を観て、
人は清楚な白いドレスの少女に同情を禁じえないでしょう。
ただし、タイトルを見ただけでは、レディ・ジェーンって誰? “9日女王”って何?
と、英国史~世界史に疎い人々は、居心地の悪さを覚えるやもしれません。
Jane Grey(1537~1554)は、イングランド史上初の女王とも目される人物。
ヘンリー8世(1491~1547)の妹の孫に当たり、8世が後継者の男児欲しさから
次々と妃を殺したり、離縁したりする中、王位継承権争いに巻き込まれたのです。
8世の遺言による継承順位は、1位エドワード、2位メアリ、3位エリザベス、
4位がジェーン・グレイ。3人目の妻との間の男児エドワードは、エドワード6世として
即位したのですが、病弱。最初の妻との間の女児メアリ、2人目の妻との間の女児
エリザベスは一時期、庶子として扱われたことがあり、その隙を突いて、舅である
ジョン・ダドリーがジェーンを担ぎ出してクーデター。陰謀は転覆し、メアリ1世は
ジェーンをロンドン塔に幽閉。命だけは助かるかと思われたものの、1554年に起きた
ワイアットの乱の首謀者の一人に実父、ヘンリー・グレイがいたことでアウト……。
夏目漱石がロンドン留学中の体験を基にものした小品『倫敦塔』にも登場しています。
参考文献:中野京子『怖い絵 泣く女篇』(角川文庫)
夏目漱石『倫敦塔』(青空文庫)
気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端(はじ)には男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬(また)たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停(とま)る。男は前に穴倉の裏(うち)で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色(すすいろ)をした、背の低い奴だ。磨(と)ぎすました斧を左手(ゆんで)に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾(ハンケチ)で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台(まきわりだい)ぐらいの大きさで前に鉄の環(かん)が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎(ようじん)と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣(ほうえ)を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色(こんじき)の髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面(おもて)、なよやかなる頸(くび)の辺りに至(いたる)まで、先刻(さっき)見た女そのままである。思わず馳(か)け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前(さいぜん)男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分(すんぶん)違(たが)わぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握りの髪が軽(かろ)くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真(まこ)との道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹(きっ)として「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後(あと)ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気(げ)に斧をエイと取り直す。余の洋袴(ズボン)の膝に二三点の血が迸(ほとば)しると思ったら、すべての光景が忽然(こつぜん)と消え失(う)せた。
人は清楚な白いドレスの少女に同情を禁じえないでしょう。
ただし、タイトルを見ただけでは、レディ・ジェーンって誰? “9日女王”って何?
と、英国史~世界史に疎い人々は、居心地の悪さを覚えるやもしれません。
Jane Grey(1537~1554)は、イングランド史上初の女王とも目される人物。
ヘンリー8世(1491~1547)の妹の孫に当たり、8世が後継者の男児欲しさから
次々と妃を殺したり、離縁したりする中、王位継承権争いに巻き込まれたのです。
8世の遺言による継承順位は、1位エドワード、2位メアリ、3位エリザベス、
4位がジェーン・グレイ。3人目の妻との間の男児エドワードは、エドワード6世として
即位したのですが、病弱。最初の妻との間の女児メアリ、2人目の妻との間の女児
エリザベスは一時期、庶子として扱われたことがあり、その隙を突いて、舅である
ジョン・ダドリーがジェーンを担ぎ出してクーデター。陰謀は転覆し、メアリ1世は
ジェーンをロンドン塔に幽閉。命だけは助かるかと思われたものの、1554年に起きた
ワイアットの乱の首謀者の一人に実父、ヘンリー・グレイがいたことでアウト……。
夏目漱石がロンドン留学中の体験を基にものした小品『倫敦塔』にも登場しています。
参考文献:中野京子『怖い絵 泣く女篇』(角川文庫)
夏目漱石『倫敦塔』(青空文庫)
気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端(はじ)には男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬(また)たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停(とま)る。男は前に穴倉の裏(うち)で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色(すすいろ)をした、背の低い奴だ。磨(と)ぎすました斧を左手(ゆんで)に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾(ハンケチ)で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台(まきわりだい)ぐらいの大きさで前に鉄の環(かん)が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎(ようじん)と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣(ほうえ)を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色(こんじき)の髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面(おもて)、なよやかなる頸(くび)の辺りに至(いたる)まで、先刻(さっき)見た女そのままである。思わず馳(か)け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前(さいぜん)男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分(すんぶん)違(たが)わぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握りの髪が軽(かろ)くうねりを打つ。坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真(まこ)との道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹(きっ)として「まこととは吾と吾夫の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後(あと)ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気(げ)に斧をエイと取り直す。余の洋袴(ズボン)の膝に二三点の血が迸(ほとば)しると思ったら、すべての光景が忽然(こつぜん)と消え失(う)せた。
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